俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

五輪は“おまつり”ではない

五輪は世界体育競技大会だ。お祭りではない。
国体もお祭りではないのだ。
“スポーツ祭東京2013”開催式の映像を見た。
航空自衛隊のブルーインパルスも飛び交い、
ロンドン五輪の閉会式を彷彿させるような豪華版だった。
国民体育大会の精神ではないような印象だった。

その頃、ドイツのミュンヘンの世界選手権で、ケニアのウイルソン・キプサング選手(31)がマラソンで2時間3分23秒の世界新記録を達成。女子マラソンはケニアのフロレンス・キプラガド選手が2時間21分13秒で2度目の優勝。

国体は陸上の若人に期待していたが残念だった。

国体に限らず、総じて今の日本の競技は世界から学ぶ努力が肝心だと思う。スポーツにかぎらず、誰もが世の中(世界)から学ぶことは大切だが、どうも今の日本のスポーツ界は、競技意識が世界を向いていないような気がする。

巨費を投じて2016五輪の誘致に敗れ、今回は首相も参加の大誘致合戦。さらなる巨費を投じてやっと得た“2020東京五輪”開催だ。

東京国体のような“スポーツまつり気分”の2020五輪を開かれてはたまらない。五輪は、各国開催による、国威高揚 愛国精神昂揚などを目指してきた。 

しかし、1984年のサラエボ五輪を開催したユーゴスラビアは1992年に国が解体し、1981年のモスクワ五輪のあと、1991年にソ連解体でロシア連邦となった。北京五輪も巨費を投じて、当時は成功したように見えて、大施設は不要となり放置のままだ。国民への体育啓蒙も果せていない。4年後に迫る韓国の平昌冬季五輪は経済危機で開催不能との噂もある。巨費を投じる五輪には、悲惨な結果になった国が山ほどある。

五輪は巨費を投じるばかりが脳ではない。二度目の五輪にふさわしく、経験を生かした“創意と工夫の東京五輪実現”を目指してもらいたい。

開催までの7年間。都知事の五輪とオカネの使い方に対する言動に要注意!
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東京五輪に思う  目指せ逞しき日本

2020年の五輪が東京に決まった。レスリングも外れずに済んだ。
私は1960年のローマ五輪にレスリング選手で出場した。
次の1964年の東京五輪は、FILA公認の国際審判員として参加した。
したがって、2020年の東京五輪は、私にとつて3度目の体験となるわけだ。
が、それは7年後で、84歳! まださきのことだ。

2020年の日本代表選手は、多分どの競技も、現在の若い十代の選手が主力になるはずだ。私の頃と異なり、今、レスリングは男女とも盛んで幼少年クラスまで増えた。競技人口も50年前とは比較にはならない。

当時私が、レスリングでオリンピツクをこころざしたのが17歳で、ローマ大会に出場したのが25歳、9年かかって夢が適ったわけだ。

私の体験から、ここでは男子のレスリングについて述べる。
世界クラスの選手が、その実力を3年も4年も維持し続けることは、非常に難しい。現在のトップクラスの選手は7年後はどうだろうか?

多分多くが引退しているだろう。
長期にわたり“一番の力”を維持継続することが難しいからだ。
超重量級は番外として、体重調整の厳しいレスリングやボクシングなどで現在活躍中の選手が、7年後の東京五輪代表になることは、極めて難しいと思う。

これは世界中の選手にもいることだが、体重別競技は減量に苦心かあり、6年も7年も体重と技量を維持するのは困難だ。特に、レスリングは其の代表的な競技だが。

だから、レスリングで202に活躍する選手のほとんどは、いま十代の選手たちだろう。2020TOKYOU五輪は、現在十代の選手達が活躍するチャンスなのだ。     
中学高校選手には是非がんばってもらいたいし、コーチ、監督の奮闘努力が大切だ。厳しい稽古と指導者が暴力を振ることは違う。暴力行為は指導にあらず、指導者失格即退場だ。監督コーチの責任は重いのだ。

要は、選手自身の自主独立の精神!を指導することだ。
そして、自主性を養わせること、

7年後の東京五輪目指して、選手諸君は奮闘努力して貰いたいものだが、それには先ず、何事においても、監督指導者が実践垂範あるのみ!

再度の誘致運動で巨費を投じて得た二度目の東京五輪開催。決まった瞬間から、便乗金儲けの話が多くなった。マスコミ報道も経済効果ばかりで誠に嘆かわしい。

日本人の心身パワーを近隣諸国や世界に示すチャンスなのだ。
弱い者はイジメられる。逞しければ、それは別だ。前回の東京五輪を思い出し、2020年までには、もう一度当時の、逞しい日本を取り戻そう!

2020東京五輪は日本の武士道の精神と、オリンピツク精神を世界に示す時だ。

先日、友人で慶応OBの今井清吉さんから、日本体育大学に八田一朗の胸像ができ、除幕式があったと知った。

金メダル 五つ並べて 花ノ宴 

八田一朗が1964年の東京五輪日本レスリングで大勝利した時の俳句だ。
これぞ八田流である。
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米国武者修業(8) 全盲レスラーと試合---ニューメキシコ

これからは夜行バスでの車中箔が多くなる。
アルバカーキーまで約1300km。ニューメキシコの首都へ。
いよいよ長距離バスの旅のはじまりだ。移動は全米を繋ぐグレーハウンドバス。
大型のトイレ付きで、フリーウェー(高速道路)を平均時速70マイル(112km/h)でかっとばす。

武者修業といっても、松尾芭蕉や宮本武蔵と違い徒歩の旅はない。移動は全てバス。
寝てれば目的地に着くのだから有りがたい。ローストビーフで体調は万全、懸念はオーバーウェイト、夜行便は食わずに寝るに限る。

試合毎回夜間に開催。日曜は無し。この州では親善試合のみ。州内を1000km以上も走りながら眺めるので、下車して観る用もない。


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武者修業といっても、松尾芭蕉や宮本武蔵と違い徒歩の旅はない。移動は全てバス。
寝てれば目的地に着くのだから有りがたい。ローストビーフで体調は万全、懸念はオーバーウェイト、夜行便は食わずに寝るに限る。

試合毎回夜間に開催。日曜は無し。この州では親善試合のみ。州内を1000km以上も走りながら眺めるので、下車して観る用もない。

Albuquerque Sunset
Albuquerque Sunset / Woody H1


試合会場はアルバカーキーの屋内競技場。会場は満席。
ニューメキシコ州選抜チームとの対戦。私の試合は、中盤に行なわれた。

場内アナウンスが有り急に会場が静かになる。マットに上がるまでのコーチ等のしぐさで、相手は盲人選手ではないかと感づいた。

何も深く考えることもないし、考えてもしょうがない、試合をするまでだと思った。
レフェリーが相手選手を導きながら中央に来た。レフぇリーは無言で、互いに握手。

試合開始の合図の笛! 同時に静寂となる。私は相手を見ながら構えようとしたが、相手は、両手の平でマットを撫でる様にして耳をそばだてている。瞬間、私は気付いた、相手は私の足の動きを悟るために音を聞いているのだ。そのためにアナウンサーは場内に静粛にしてくれるよう説明したのだ。

両手をマットに這わす。相手選手の形が蜘蛛か、今にも獲物に飛び掛る猛獣のようだ。
一瞬、目のやり場を失った。盲人選手だから目を見ても意味が無い。相手は私を攻撃できないので、マットから手に伝わる感覚で私の動きを察知しているようだ。

目が見えないから先攻できない。
だから、私の動きを探りながら攻撃のチャンスを掴もうとしている。

この間は数十秒だったと思う。

katamari wrestling!
katamari wrestling! / emdot


私もなんだか不気味で、チャンスが掴めず躊躇しながら、立ち技時間は修了。
寝技は相手が専攻で、ノーポイント。後攻で私がトーホールドから相手を一回転させてポイントを獲得。

勝てた。しかし、私は精神力で完全に負けていた。

格闘競技に盲目選手が挑戦する精神。フロンティア精神に熱烈に感動した。
試合後、改めて握手を求め彼の健闘を称えた。

観衆から褒美に投げ銭の雨!
観客席から拍手と歓声が沸き起こり、マットの上に、"投げ銭" が降って来た。
歓声と投げ銭はかなり続き、拾い集めるのに忙しかった。

25セント硬貨を一ドル紙幣で包み、マットに投げ込まれる。その数が約600個。
中には5ドル、10ドル、20ドル紙幣もあり、1000ドル以上の収穫だった。
当時ニューヨークの地下鉄が15セント均一だったから、1000ドルは米国でも大金だ。
日本円公定換算で36万円に相当する。

観衆が勝敗のみに拘らず、双方を褒める。
そんな観戦マナーの見事さに敬服させられた試合だった。

米国人の開拓魂とフェアプレー精神。リッパさに脱帽!

Savings Time
Savings Time / kozumel
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米国武者修業(7) ローストビーフと海兵隊---サンディエゴ海軍基地


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サンディエゴは現在、カリフォルニア州でロサンゼルスに次ぐ第2の都市だ。人口122万人。

私の武者修行当時も、ガラス張りエレベーターのあるビルなどがあり、南国調の明るい感じの都市だった。アメリカ合衆国の最南西部、西は太平洋、南はメキシコに面する国境の都市。今では西海岸州でも有数の国際都市という。

San Deigo 2007
San Deigo 2007 / 剛


レスリングの縁で、当地のヨットクラブハーバメンバーの好意を受けた。送迎のお世話をいただき市内を見学。ヨットハーバーでは、クラブハウスで歓迎の昼食パーティーも開かれた。海面が見えぬ程のヨットの数。帆柱はまさに海の林! ただタマゲルばかり。江ノ島のヨツトハーバーを思い出しても、こりゃ駄目だ! 負けだ大負けだ! 比較にならない。

クラブハウスで昼食会の後、海兵隊の正門でクラブの皆さんと別れる。

サンディエゴはメキシコ国境沿いに位置し、隣はメキシコ国のテワナ市だ。当時はフリーパスで往来自由だった。現在は麻薬の持込犯罪の増加で、米国入国は極めて厳重という。そんなテワナ市は、世界の工業、医療のハイテク企業などで栄え、メキシコ経済の拠点の一つとなっているそうだ。でも、当時はバラックの建物が目立ち、お世辞にも良い町とは言いにくかった。

それはさておき、我々日本チームは、サンディエゴの海兵隊に招かれ2泊した。

まず、施設の紹介。
NTC (Naval Base San Diego,National Traning Center)は太平洋艦隊の主要母港で訓練基地でもある。面積は5.27平方キロメートル。大型艦船の桟橋が13に、飛行場と広大な野外、屋内訓練場などがあり、最高水準の設備だ。当時の所属隊員は3万余名。それを世話する4千余名の一般職員が働くという。

サンディエゴは海軍の拠点
サンディエゴは海軍の拠点 / iandeth


そのNTCに午後到着。外来宿舎に入る。早速NTCレスリング関係者の親切な説明、案内が3時間にわたり、ほぼ全施設を車中より見学した。岸壁に連なる大型艦船にまた仰天! 米国には、こんな基地がいくつもある。バージニアのノーフォーク(これは世界最大)、フロリダのメイポート、ハワイのパールハーバー、メリーランドのボルチモア。この軍備を見たら、誰も戦争なぞ仕掛たくないはずだった。ちなみに現在、日本の横須賀を母港とする旗艦ブルーリツジは、第7太平洋艦隊のNTCに所属しているらしい。

我々はここでNTCチームとレスリングの親善交流試合。観衆は隊員が多かった。軽量級は好調に勝ち続けたが、やはり重量級で追いつかれ、とうとう引き分け。どこの試合でも、日本チームの悩みは重量級だ。相手は普段から、軍事トレーニングとレスリング、そして肉食で鍛えられた身体。職業選手のようなものだった。

身長190cm、体重120kg前後の筋骨たくましい選手が揃った部隊チームだ。体力差は歴然。我々の相撲的な体格は、寝技を多要する競技には不向きなのだ。日本の重量級選手は対戦ごとに自信を無くし、意気消沈するようすが残念だった。

しかし軽量級で勝ったから、全体としては好試合で、隊員や家族は大喜び。おかげで滞在中の食堂のサービスも一段と上がった。日本と米国の体力の違いは食生活の違いだ。ローストビーフは其の代表的例だった。

翌日は米側の要望で、午前中にレスリングマット4面を使って講習会を開いた。そこで我々は日本独自の技を披露した。これは米国隊員達の関心を集め喜ばれた。参加選手と大勢の見学隊員に、柔道や合気道の技を取り入れた日本レスリング流を披露。独特の投げ技、足技などが特に好評だった。2時間の講習は大好評で、交流は成功だ。

これは、自分にとって良き教訓となった。毎日何かを学ぶ。これが修行なのだ。

次ぎはニューメキシコ、また挑戦だ。

勝つと注目される。強くなければ注目されない。
勝負は勝つことだ!
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米国武者修業(6) レスリングの試合は全て有料

ロスに到着後、ハントさんが運転する迎えの車に乗り、1時間半ほどぐるぐる走った。そうして最後に「ここが宿舎だよ」と下ろされた。ここで我々はビックリさせられた。なんと、1時間半もドライブしたエリア、街だと思っていたところは全部、キャンパス内だった。ハントさんはUCLAの学内を1時間半かけて案内してくれたのだった。

UCLA Campus
UCLA Campus / picdrops


米国では、大学のキャンパスは街である。一方、フェンスのあるキャンパスは……それは刑務所であった。後にハリウツドやビバリーヒルズも車から見た。見るだけでもうたくさん、という気分になった。米国は広いな、スポーツ馬鹿では駄目だな、と思った。これが武者修業のテーマだ。"心と体を鍛えよう"!

UCLAは、1919年に開学したカリフオルニア州立大学ロサンゼルス校だ。2012年の時点で4,000人の職員と34,000人の学生が在籍する。米国を代表する教育、研究拠点で、世界的に知名度が高い。NCAA(大学スポーツ連合)でも過去最多の優勝を獲得しているし、プロ選手の輩出も多く、全米はもとより、留学生は世界百数十カ国に及ぶ。フツトボールは "PAC12"に所属。ローズボール競技場(91,500人収容)を有する大学である。

UCLA滞在最後の日。ハントさんがパサデナにあるローズボール競技場を案内してくれた。実に見事なスタジアムだった。現在は正面の大スクリーンなど、最先端技術を駆使した設備のスタジアムだが、55年前も収容人員は10万人だった。昔とあまりかわらない。

UCLA!
UCLA! / hans s


ローズ・ボウルと同様に、他にコツトンボール、オレンジボールなど、今では30以上のボールゲームが全米各地で開催されている。フツトボールは正にスポンサーが喜ぶ、スポーツビジネスの見本のようなものだ。

レスリングも米国では人気スポーツ。試合を開催すると入場料が入り、その一部が我々の軍資金になるからありがたいことだ。ちなみにUCLAの場合、入場料は大人5ドル、老人3ドル。学生と子共は無料だった。
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米国武者修業(5) UCLAへ、食事と体重管理

囚人島で交流試合を無事終えた次の日、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを渡った。合衆国最長の吊り橋。当時は世界最長の吊り橋だった。ちなみに現在の最長は瀬戸大橋である。
Chesapeake Bay Bridge
Chesapeake Bay Bridge / Craig Stanfill


それはともかく、長い吊り橋を割ってオークランドへ。西部選手権に参加した。日本勢は軽量3階級に勝利、中量級は善戦した。しかし重量級は体力が及ばず残念な結果だった。

サンフランシスコ近郊の試合を終え、グレーハウンドバスに乗った。いよいよ米国一周、12,000kmの武者修業の始まりである!

この武者修行、道中の心得として、

ひとつ、移動中は日の丸の制服(学生服)着用のこと。
ひとつ、旅券泌帯。
ひとつ、選手団は全員グレーハウンドバスの全米周遊券持参。
ひとつ、就寝は夜行バス。
ひとつ、食費は試合の入場料収入で賄う!
ひとつ、飲食物はストアーで買う!
ひとつ、体調、体重調整は、車中自己責任!

■食事について
貧乏修行旅行だからレストランなどに入るなど贅沢だ。グロセリーストアーが街中にあるので、移動中に飲料水と野菜を買うつもりである。食費は試合の観戦料から、つまりファイトマネーで賄う。どれだけお客が入るかわからないから倹約する。

それでもみな日増しに体重が増えてきた。理由は肉料理の食べすぎと練習不足だ。ハワイ以来、朝食はハムエッグかソーセージエッグ、昼食は肉を挟んだサンドイッチ、夕食のメインも肉料理。当時の日本食は魚と野菜と米。それで満腹してきた。こちらでは日本食の分量と同じくらい肉を食べて満腹にする。それは肥る訳だ。

貧乏旅行だけど、肉など食べ物は手頃な価格だった。米本土に到着以来、UCLAのまでの短期間で、ちょっとは空腹感があった。しかし、私をはじめ誰もが太り始めた。

■体重について
公式試合は当日の計量が厳格で、1グラム超過でも失格だ。

普段練習時の私の体重は63kg。これを試合の時は57kgに落とす。公式戦は、52キロフライ級だ。出場試合を目標に練習を始め、最終的にはサウナで決める。予選会では出場希望階級の2キロオーバーだった。私の場合は54キロで、もしオーバなら上のクラスに変更するか、または計量失格!と云うことになる。

今回の転戦試合は2キロオーバーだった。常に体重調整が不可欠である。今夜は、UCLAで試合だ。朝から食事抜き。それでもまだ2キロオーバーだった。

ただし非公式の交流試合や親善試合は双方の監督の話し合いで決める。今回の遠征試合は自らの修業が目的だから、すべて現地のコーチの要望に従う。この時は特に体重について、日本チームは全選手オーバーウエイトが著しかった。


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早朝にサンフランシスコを出発、600kmの道のりでロサンゼルスのバスターミナルに着いた。UCLAレスリング部のハント監督の案内で宿舎に到着。ハント監督は元軍人レスラーというツワモノであった。

到着当日、夜7時。体育館で親善試合とあいなった。観衆5,000人。軽中量級は順調に勝ったが重量級が苦戦。団体では引き分けという好試合で、観衆も沸きに沸いた。

戦前カリフオルニアに移住した日本人は多い。日本米の開拓者コーダ米のコーダ農場などがその代表である。この時はまだ日本人の観客は目立たなかった。米国人と連れ立って訪れる人もいたように思う。そして、ハワイ日系会、オークランド日系会、UCLAでも日系会の方々の日の丸を振る姿が印象深かった。

このあと、我々日本選手がハワイ、サンフランシスコ、と好成績を残しながら転戦しているという新聞報道が広がり、行く先々で日系人の観衆がふえていった。特にロスでは日系社会も大きく、我々の活動が話題になっていた。

試合後日系老人夫妻が来て、私たちに「戦時中自分たち日系人は収容所に入り苦心したが、今日は堂々と日の丸が振れた。皆さんありがとう!」と激励してくれた。そして、一諸に来たらしい同年代の米国人夫妻と、楽しそうに笑談しながら去って行った様子が印象的だった。

あのとき、日の丸を手に応援してくれた日系人の皆さんの思いが魂に響いた!

ちなみに、今もポートランドのわが家の米はコーダ米である。
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米国武者修業(4) -囚人選手と夕食会-


Alcatraz Cells / Fmarier

刑務所の試合は日本側選手に負傷棄権が一人いた程度。
無事終了した、 

その後、食堂で囚人チームと夕食交流会。全選手とも和やかな時を過ごした。
こんなこと日本では考えられない! 米国人の発想にびっくりした。
仰天体験の一日だった。

なにしろ対戦相手の囚人が隣に座り、10年来の友よろしく交流できるのだ!

「お前は強い。きっと成功するだろう。ローマ目指して頑張れよ!」

と激励してくれた。囚人なのに……。

「俺がここにいても、シカゴには大勢の仲間がいる。
 招待させるから、シカゴに着いたら電話しろよ!」

と電話番号もくれた。えっ?

後半は北廻りで、シカゴではマークトウインホテルに泊まった。
電話の件はどうしようと思った。
米国でアルカポネの仲間と親しくしたのでは道を誤るので、電話はしなかった。
今にして思えば惜しいチャンスを逃したかもしれない。
シカゴの親分を友人にできたかもしれないのに、残念だったかな。

それにしても米国人は大らかで、面白い人間が多い。
これからの旅先が益々楽しみになった。

私達の旅は、勝ちながら親善になるスポーツ外交だ。
ハワイ海兵隊、サンフランシスコオリンピツククラブ、西部選手権、
そして刑務所、と8戦し、全試合フォール勝ち。完勝だ。
ニューヨーク目指して頑張ろう!

米国人に馬鹿にされないために勝つ、という思いがあった。
強ければ誰にも馬鹿にされない。
そんな我々のNEWSが、報道されるようになっていた。

次はニューメキシコ
ここからが本当の、武者修業の始まりだった。
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米国武者修業(3) -囚人と親善試合- 


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体育館に大勢の観衆が集まり、親善試合が始まった。
対戦相手はみな、そうそうたる、一流の(?) 犯罪者ばかり。試合を見守る"大勢の"観衆も囚人たちである。暴動でも起きたら……と、一寸不安になる。


アルカトラズ島、Alcatraz Island / densetsunopanda


米国のレスリングには、"カレッジスタイルレスリング"と"オリンピックスタイルレスリング"がある。オリンピツクを目指す選手以外の米国人はオリンピックルールを知らない。

我々は、修行のためならどちらでも良い。しかし、囚人選手が素直に審判に従うか否か、そこが心配だった。だいいち、犯罪者が "フェアープレーの精神" を持っているだろうか?

そんななかで、最初の試合は私である。
相手は入れ墨だらけ、鋭い目つきの選手……囚人だ。見るからに不気味だった。
でも、これはギャングやヤクザの "抗争" ではない。スポーツだ。レフェリーがいる。やるしかない!

試合開始。度胸を決めてタックル一発! 短時間で終わった。
不思議なもので、マットに上がると不安が消えた。
相手は笑顔で私に握手を求め、私の肩をたたく。私もつられて肩たたいた。 

なんだか、観衆の面前で相手囚人の面子をつぶしたようで気の毒だった。
負けてやってもよかったな、と思ったが……。
勝っても後味のよくない試合だった。
でも、相手がスポーツを理解してくれていたので安心した。
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米国武者修業(2) -アルカトラズ刑務所へ上陸-


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ハワイ戦の2日後にサンフランシスコ到着。市内滞在。
ドクターノースロープの案内で、サンフランシスコ・オリンピツククラブの西部選手権に参加。最も印象深い思い出は、連邦刑務所で囚人チームとの親善試合だ。

アルカトラズ島。サンフランシスコ湾の沖2.5kmキロに浮かぶ、8.9ヘクタールの小さな島。
米国で当時、もっとも有名な連邦刑務所のひとつ。
連邦政府とカリフオルニア州管轄の特別刑務所だ。

シカゴの大親分、アル・カポネはじめ、歴史に名高い有名犯罪囚が多く、映画やTVドラマ、本、コミツク、漫画などで、現在でも、語られることが多い。脱獄事件物語でも全米で有名な刑務所だである。メキシコ領時代、米国統治時代も歴史的エピソードに事欠かない。南北戦争では"要塞島"だった。

Alcatraz @ Dawn

アルカトラズは1933年から1963年まで連邦刑務所として使用された。後に、ゴールデンゲート・ナショナル・レクリエーション・エリアに認定された。一時は見学できたが、その後島への上陸は禁止され、現在は歴史施設として保存されている。

この "アルカトラス島刑務所" は脱獄物語が後を絶たなかった。最近のTVでも4時間にわたり、当時の脱獄物語や獄内の様子を興味深く報じていた。

その、刑務所時代のアルカトラズへ私たちは乗り込んだ。
選手団、いざ刑務所へ! である。

湾から連絡船で数十分。本当に要塞のような、不気味な囚人島だつた。
コンクリートと鉄柵と警備員の銃口が目立つ。異様な光景に皆緊張した。
この緊張は島を離れるまで続いた。

ゲートで身体検査、カメラ他一切持込禁止、預ける。
全員手の甲に入場証明の透明スタンプを押される。
そのインクは肉眼で確認不可能! 

始めは興味深深だったが、だんだん犯罪者、囚人の気分になってくる。
観念して警備員の指示に従う。
建物の周りの高台は、見張りが銃口を我々に向けているようだ!
警備員の指示に従い移動、5、6メーターごとに鉄柵ゲートが自動開閉する。
不気味で異様な音だ。

牢獄、図書館、体育館、医務室、食堂、管理所、ガス処刑部屋などを見た。トイレで用足し中も銃口は見える。施設内に死角が無い。施設の全てを公開してもらった。

選手団の一人が見学に熱中しすぎ、一団から遅れた。
ロックアウト! 全館非常ベルの大騒動!
警備員に「気にいったなら、泊まっていったらいいぜ」と冗談を言われて青くなる。

個室のガス室は死刑を想像する。実感のこもる不気味な部屋だ。皆無言。言葉を失う。
こここに住む死刑囚が相手。俺はどんな奴と試合をするのだろう。不安は高まる。
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米国武者修業(1) -2ヶ月200ドルの貧乏旅行-


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八田会長いわく

「日本は当時!止むに止まれぬ無謀な戦争を米国にしかけ、
 多大の犠牲を蒙り敗戦した。
 敵の国力を知らず 己の国力を悟らなかったからだ!」


戦前に米国体験のある八田会長はさらにこう言った。

「日本レスリングは米国の生活や文化を学び。
 スポーツを通じ、日本の複興と国際親善に尽くそう!」


1957年2月から4月にかけて、全米一周12,000キロの旅がはじまった。
日本スポーツ界初の海外武者修業。
八田一朗会長陣頭指揮の、日本の大学選抜レスリング団である。

これが私にとって初の海外への"あしあと"だ。
日本大学選抜の一員として、この全米一周武者修業に参加した。

当時の日本は海外渡航が厳しく、特に米国査証(ビザ)の取得は極めて難しかった。観光は勿論、貿易商売などでの渡米も困難な時代だった。

レスリングは戦前からの米国交流が認められた。
八田会長が、日本統治中の占領軍GHQのマツカーサー元帥に直訴した。
選手達は、赤坂の米国大使館にて面接、異例の特別査証が許可された。
ただし、持ち出せる現金は制限されている。2ヶ月で200ドルの貧乏旅行の始まりだ。

羽田空港国際線ロビーは、選手団見送りであふれ華やかだった。
明治、慶応、早稲田、法政、中央 大阪の関大 関学など関係者の見送り、各大学の鳴り止まぬ応援合戦。重なりあう校歌と大勢の人びとに見送られ、八田一朗会長を団長とし、監督・マネージャー・選手の合計11名の出発だ。

当時の国際線は羽田からの日本航空のみ。
米国最新型の4発プロペラ機DC7。ウエーキ島で給油してハワイ、そしてサンフランシスコまで。他州への米国便無しの時代だった。

_xf0800507471l.jpgホノルル空港到着。
日系会のスチール野田会長はじめ、沢山の人びとに迎えられた。
ハワイ名物のフラダンスで、美女たちにレイを贈られた。
選手団は大歓迎をうけた。 

初戦は、ハワイ・カネオエ湾基地の海兵隊チームだ。
終了後合同食事会に招かれた。

(写真提供:ペイレスイメージズ)
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