俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

あしあと <1> はじめに

これから、74年間歩んできた私の足跡を記す。

できるだけ始めからと考えゼロ歳からを辿った。しかし3才頃からが精一杯だった。その頃の事はうろ覚えが多い。でも、辿る内にだんだんと記憶が蘇る。そこでこのチャンス、呆けない内にと思い書き始めた。

書いた後で思い出だすことが度々あって、其の為に、前後重複が度々あります。
消えた『あしあと』を思い出すようなもので……。

毎日、奮闘努力中です。
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あしあと <2> 夢のなかの孫悟空

私は昭和11年1月15日に東京で生まれた。

大田区中蒲田4丁目の角店で、平田屋という海産物と缶詰などの問屋だった。

小売屋さんへの配達が忙しいので、両親も終日忙しい。したがって、祖母に面倒をかけることが多かった。いつも寝る時は祖母に本を読んでもらった。『冒険だん吉』『のらくろ』など、どれも夢があり面白かった。

その中でも『孫悟空』の物語が一番で、孫悟空が“きん斗雲”と言う雲に乗り、世界中何処へでも飛んで行く。そんな夢いっぱいの物語に、興奮して寝られない夜が何度もあった。なにしろそれは、ひとっ飛び10万8千里(432,000キロ)の術だ。悟空は地球の周りをグルグル回りながら、三蔵法師の天竺までの旅を助けるのだから偉いもんだ。だから夢の中ではいつも、「孫悟空は凄いが、それを家来にした三蔵法師は偉い坊さんだ」と思った。

蒲田の加藤幼稚園には祖母が懇願し、特別に早く入園した。通園が楽しかった。徒歩だから、毎日道草ができるからだった。

4歳の頃から兵隊さんに憧れていた。親戚が入隊するのを見送ったり、祖母や親父と観兵式をみたり。特に海軍大将東郷元帥。日露戦争にバルチック艦隊を破り、英雄となった東郷元帥に憧れていた。だから五月節句のお祝には子供用のセイラー服を着たものだ。戦争の恐ろしさなど、勝っていると、誰も判らないのだ。
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あしあと <3> 疎開先の臭い話

米国と戦争がはじまり、B29が東京上空に飛んで来た。「本土爆撃が始まるぞ、逃げろ! まずは都外へ」と言うことで、小学2年生の時に川崎市高津区久地に引越した。二子玉川から橋を渡った所だ。しかし高津小学校は1年足らず。空襲が激しくなり、一家は伊豆の韮山に疎開した。

小学校の3、4年を韮山小学校に通う。毎日4キロの歩きである。勉強より、山へ松の根っこ堀りの勤労奉仕の作業が殆んどだ。軍隊がエンジンに使う松根油の為であった。

イナゴ取りの日もあった。竹の節を両方切り落とした竹筒に布の袋をくくりつけた道具を持ち、田んぼに出る。夢中になって取ったイナゴを竹筒に入れていくと、いつしか袋いっぱいになる。これは供出して、戦地の兵隊さんの蛋白源になるのだ、と言われた。戦争に勝つためだという事で、皆良く頑張ったと思う。

韮山には、たしか2年近く暮らしたのだが、ある日突然、杉山五郎さんが家にやって来た。東条英機総理大臣の弟さんが、家族がお忍びで疎開してきたという。「東条さんの息子さんは、お宅の孝さんと多分同学年だと思うので、是非友達になってやって貰いたい。私の家は娘ばかり。だから是非面倒みてやってもらいたい」と頼みにきた。

東条さんは東京の人たちだし、お忍びだから噂が村に広がると困る。結局、何となく友達のようにして、村の回りを案内した。蛭が小島とちいう、源頼朝が島流しにされたというところや、日本で最初に大砲を作った反射炉などを見せるなど遊んでやったが、毎日だと疲れたので、本人も疲れるだろうと思い一日休んだ。

その次の日が大変だった。「東条さんが大変だ」と杉山五郎さんが我が家に助けを求めてきた。家の両親もびっくり。聞けば、東条さんの息子が畑の肥溜めに落ち、首まで漬かりまだ其のままだという。「村のすぐ近くなので助けに来てくれないか」と請われ、親父と出かけた。幸い肥溜めには半分ぐらいしか肥えが無く、顔まで浸かっていなかった。

彼は死なずに済んだが、その後始末が臭くて臭くて、片手を自分の鼻に当て、片手で助ける。肥溜めから引き上げるだけでも大変だった。その上、五郎さんの家まで第八車で運び、五右衛門風呂につけ洗い流す。大人たちも汗だくだった。お陰で、そのあと3、4日、誰も風呂に入れず。外で行水した。実に大変で臭い話だ。
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あしあと <4> 川崎に戻る。たっぷりとDDT

韮山時代の平田家は“にわか百性”だが、いろいろな仕事があり、私は毎日それを手伝った。思い出せば限の無いほど、そのときは夢中でやったことが幾らでもあった。辛いと言えば辛く、しかし、韮山時代は私を鍛えてくれた。心も、体も鍛えてくれた。誰に鍛えられたかというと、それは、戦争によって私は鍛えられたと言う事である。余談だが、韮山高校は1950(昭和25)年夏の甲子園全国高校野球で静岡県代表となり、四国の高知商業に4対1で勝って優勝している。韮山の子たちが日常で鍛えられた証拠である。

その後まもなく私達家族は商売のために川崎市に移った。小学5年で高津小学校に再入学した。6年間で4度目の転校だ。確か5年の終り頃から通い出したと思う。

ある朝、朝礼の最中に米軍兵がジープで校庭に来た。DDTを全員にスプレーで噴霧するという。全員そのまま、校庭に一列に並び、順番に頭へDDTをかけられた。しらみ退治だが、女の子は髪の毛の中まで丁寧過ぎる程スプレーされた。頭も顔も真白で、臭くて、お互いの顔を見てゲラゲラ笑った。いま思うとDDTは毒性の高い、人体に恐ろしい殺虫剤で、現在では世界中で使用を禁止されている猛毒だ。私は米兵に頼み、皆の倍ぐらい掛けてもらったので、後遺症が今でも心配である。

戦争を間にして、6年間に小学校を4度変った。何処に移る時も非常の時で、学校でなにを勉強したか、させられたか、さっぱり記憶にない。しかし戦争は、自分の人生に大切ことを沢山覚えさせてくれた。

「大人も子供も無い、いざという時は自分だけが頼り。何事も自分でやるしかない。やればどんなことでも何とかなる」

これは私の小学生時代6年間の実習のようなものだ。
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あしあと <5> レスリングと出会う

高津新制中学を経て川崎の法政二校に入り、レスリングを始めた。

監督は小林正好先生で富山県出身。日大レスリング部OBだった。そのお陰で日大OBの川尻、小林先輩や明大OB飯塚先輩、矢田先輩など、一流選手の皆様のご指導を頂く事ができた。

夢だけは持ったものの、出来たばかりの部であった。初心者ばかりで技など知らない。練習は体力作りのみ。2年生の頃は他校に負けるばかりで、始めの頃は応援にきた友達も、しだいに誰も来なくなる有様だ。その時、協会理事の正田文雄さん(早大OB)から館林高校との合同練習を勧められた。館林市内に宿泊、館林高校に毎日通い合同練習をさせてもらった。当時の館林高校は関東一だった。その後の一時期、法政二高が全国的に活躍できる様になれた要因は、この時の館林高校レスリングのお陰である。正田さんは縁結びの恩人で、現在も当時のライバル兵藤三郎さん(群馬県レスリング協会長)とはお付き合いがある。

私はレスリングに対する自信がつき、日吉の慶応大学のレスリング道場に通って、時々、練習をさせてもらった。そこにいた今井君と戸川君が、私の友人と久松中学の同期だった。其の縁もあって練習させて貰えた事は幸運だった。今井清吉君には最後までとうとう勝てなかった。一番のライバルではあったが、今井清吉君とは今でも親交か続いている。昨日の敵は今日の良き友、である。
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あしあと <6> 中大で窓学習する法大生

法政大学に入学し、レスリング部に入部した。創部が横山さん、細井さんたち。2年目の監督は小林助男さん。まだ専用の練習場は無く、2年間は川崎の木月キャンパスで、剣道場を借りての練習だった。部員も少なく、毎回50枚からのマットの移動と後片付けには皆苦労した。とくに千葉県の佐倉高校から来た中村克君と1年下の川城君は、佐倉市から川崎までの通学だ。電車賃も掛かり大変だったと思う。その他、同期では青森県野辺地出身の奥島政治君、若狭から西嶋君、新潟の高橋くん、そして九州からは谷口君などがいた。

2年目の春。新入募集の時、相撲部に興味のあった新入生に「これからはレスリングだ。レスリングはオリンピツクのスポーツだ。先のヘルシンキオリンピツクでは、中大の石井庄八先輩が金メタル、慶大の北野先輩が銀メタルだ」などと全員入賞の話しをし「レスリングで世界への夢を」と誘ってレスリング部への入部を促した。その相撲部志望の長崎出身の彼こそ、後に全日本10連勝、オリンピツク連続出場の国際選手として活躍した川野俊一君である。

この頃になると、小林先生の法政二高も部員も増えて全国的なチームになりつつあった。川崎で予科2年の後、東京千代田区富士見町の本校に移り、杉尾勝弘部長の尽力により道場も整った。マットを敷く手間も掛からなくなり、稽古に身が入るようになった。張り切って練習に励んだ。部員も増えて。2部のリーグ戦に参加できるようになった。

しかし自分の目標は学生選手権と全日本だ。そこで川崎の法政教養部当時の要領で、法政での練習とは別に中大道場に毎日通った。ただし、行ったと言っても天下の中大レスリングの道場には入れない。道場の高い窓に背伸びをしながら、何時間も選手の練習を見た。見知った技や稽古の方法を覚えて帰ると、法政で反復練習を繰り返した。技はそれぞれの選手により様々で、特に自分と同じ軽量クラスの選手の練習に注目して見た。毎日毎日、来る日も来る日も“窓学習”に励んだ。
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あしあと <7> 初制覇は滑川国体

毎日、毎日の窓学習を続けていると、窓の内側の人々も気になったのだろう。ある雨の日に「おい君、毎日よく見てるが、レスリングが好きかい」と言われ、ハイと返事をしたところ「じゃあ早く中にはいりなさい」と言ってくれた。

この人がヘルシンキオリンピツクで日本唯一の金メダリスト、石井庄八監督だった。幸にも練習着やシューズは何時も持ち歩いていた。武士は刀を離さないという剣豪の本から学んだ私なりの考えで、普段から大事な物は持つことにしていたのだ。

石井監督の指示でキャプテンの岩井さんが相手を探し、スパーリングをさせてくれた。マットの上に登れたという感動と、名だたる中大の名選手とのスパーリングに、ただ無我夢中で練習した。しかし最後まで立ち上がれず、どうすることもできない。「強い選手とはこう選手をいうのだ」と思い知らされた。

それからは基本の体力作りを考えて、家から二子橋-丸子橋を毎日往復した。週に一度は二子橋を渡り、玉電の用賀の坂の往復も計画した。平均15キロ走った。

中大で鍛えればいつか必ず強い選手になれる。強くなれる。中大レスリングは世界の中大なのだから。石井さん笹原さん、そして池田さんと金メダル選手ら、世界級の選手がそろって稽古するのだから間違いない。目標は富山県の滑川国体だった。神奈川代表選考の決勝は早大OBの白石さんで、「飛行機投げの白石」と聞いていたので緊張した。しかし先手必勝と思い、攻め勝って代表となった。滑川では準決勝で山口県代表の斉藤さんと当たった。決勝は専大の小笠原さんだった。全国的な大会で優勝した試合はこの時が最初だった。みな郷土の誇りを胸のした強豪ばかり。反省と学ぶ事が多かった。斎藤さんはその後、斉藤道場を開き、優秀選手を何人も送り出した。

約10年間の選手生活の中で、一番手ごわく一度も勝てなかった相手は慶大の今井清吉選手だった。とうとう最後まで、勝てなかった……と何年も思っていたのだが、先日メールを頂いて「俺はお前の最強の敵ではあったが全勝はしていない。俺は一度負けているのだ」とあった。彼とはいまもナンバーワンの親友である。
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米国武者修業(1) -2ヶ月200ドルの貧乏旅行-


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八田会長いわく

「日本は当時!止むに止まれぬ無謀な戦争を米国にしかけ、
 多大の犠牲を蒙り敗戦した。
 敵の国力を知らず 己の国力を悟らなかったからだ!」


戦前に米国体験のある八田会長はさらにこう言った。

「日本レスリングは米国の生活や文化を学び。
 スポーツを通じ、日本の複興と国際親善に尽くそう!」


1957年2月から4月にかけて、全米一周12,000キロの旅がはじまった。
日本スポーツ界初の海外武者修業。
八田一朗会長陣頭指揮の、日本の大学選抜レスリング団である。

これが私にとって初の海外への"あしあと"だ。
日本大学選抜の一員として、この全米一周武者修業に参加した。

当時の日本は海外渡航が厳しく、特に米国査証(ビザ)の取得は極めて難しかった。観光は勿論、貿易商売などでの渡米も困難な時代だった。

レスリングは戦前からの米国交流が認められた。
八田会長が、日本統治中の占領軍GHQのマツカーサー元帥に直訴した。
選手達は、赤坂の米国大使館にて面接、異例の特別査証が許可された。
ただし、持ち出せる現金は制限されている。2ヶ月で200ドルの貧乏旅行の始まりだ。

羽田空港国際線ロビーは、選手団見送りであふれ華やかだった。
明治、慶応、早稲田、法政、中央 大阪の関大 関学など関係者の見送り、各大学の鳴り止まぬ応援合戦。重なりあう校歌と大勢の人びとに見送られ、八田一朗会長を団長とし、監督・マネージャー・選手の合計11名の出発だ。

当時の国際線は羽田からの日本航空のみ。
米国最新型の4発プロペラ機DC7。ウエーキ島で給油してハワイ、そしてサンフランシスコまで。他州への米国便無しの時代だった。

_xf0800507471l.jpgホノルル空港到着。
日系会のスチール野田会長はじめ、沢山の人びとに迎えられた。
ハワイ名物のフラダンスで、美女たちにレイを贈られた。
選手団は大歓迎をうけた。 

初戦は、ハワイ・カネオエ湾基地の海兵隊チームだ。
終了後合同食事会に招かれた。

(写真提供:ペイレスイメージズ)
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米国武者修業(2) -アルカトラズ刑務所へ上陸-


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ハワイ戦の2日後にサンフランシスコ到着。市内滞在。
ドクターノースロープの案内で、サンフランシスコ・オリンピツククラブの西部選手権に参加。最も印象深い思い出は、連邦刑務所で囚人チームとの親善試合だ。

アルカトラズ島。サンフランシスコ湾の沖2.5kmキロに浮かぶ、8.9ヘクタールの小さな島。
米国で当時、もっとも有名な連邦刑務所のひとつ。
連邦政府とカリフオルニア州管轄の特別刑務所だ。

シカゴの大親分、アル・カポネはじめ、歴史に名高い有名犯罪囚が多く、映画やTVドラマ、本、コミツク、漫画などで、現在でも、語られることが多い。脱獄事件物語でも全米で有名な刑務所だである。メキシコ領時代、米国統治時代も歴史的エピソードに事欠かない。南北戦争では"要塞島"だった。

Alcatraz @ Dawn

アルカトラズは1933年から1963年まで連邦刑務所として使用された。後に、ゴールデンゲート・ナショナル・レクリエーション・エリアに認定された。一時は見学できたが、その後島への上陸は禁止され、現在は歴史施設として保存されている。

この "アルカトラス島刑務所" は脱獄物語が後を絶たなかった。最近のTVでも4時間にわたり、当時の脱獄物語や獄内の様子を興味深く報じていた。

その、刑務所時代のアルカトラズへ私たちは乗り込んだ。
選手団、いざ刑務所へ! である。

湾から連絡船で数十分。本当に要塞のような、不気味な囚人島だつた。
コンクリートと鉄柵と警備員の銃口が目立つ。異様な光景に皆緊張した。
この緊張は島を離れるまで続いた。

ゲートで身体検査、カメラ他一切持込禁止、預ける。
全員手の甲に入場証明の透明スタンプを押される。
そのインクは肉眼で確認不可能! 

始めは興味深深だったが、だんだん犯罪者、囚人の気分になってくる。
観念して警備員の指示に従う。
建物の周りの高台は、見張りが銃口を我々に向けているようだ!
警備員の指示に従い移動、5、6メーターごとに鉄柵ゲートが自動開閉する。
不気味で異様な音だ。

牢獄、図書館、体育館、医務室、食堂、管理所、ガス処刑部屋などを見た。トイレで用足し中も銃口は見える。施設内に死角が無い。施設の全てを公開してもらった。

選手団の一人が見学に熱中しすぎ、一団から遅れた。
ロックアウト! 全館非常ベルの大騒動!
警備員に「気にいったなら、泊まっていったらいいぜ」と冗談を言われて青くなる。

個室のガス室は死刑を想像する。実感のこもる不気味な部屋だ。皆無言。言葉を失う。
こここに住む死刑囚が相手。俺はどんな奴と試合をするのだろう。不安は高まる。
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米国武者修業(4) -囚人選手と夕食会-


Alcatraz Cells / Fmarier

刑務所の試合は日本側選手に負傷棄権が一人いた程度。
無事終了した、 

その後、食堂で囚人チームと夕食交流会。全選手とも和やかな時を過ごした。
こんなこと日本では考えられない! 米国人の発想にびっくりした。
仰天体験の一日だった。

なにしろ対戦相手の囚人が隣に座り、10年来の友よろしく交流できるのだ!

「お前は強い。きっと成功するだろう。ローマ目指して頑張れよ!」

と激励してくれた。囚人なのに……。

「俺がここにいても、シカゴには大勢の仲間がいる。
 招待させるから、シカゴに着いたら電話しろよ!」

と電話番号もくれた。えっ?

後半は北廻りで、シカゴではマークトウインホテルに泊まった。
電話の件はどうしようと思った。
米国でアルカポネの仲間と親しくしたのでは道を誤るので、電話はしなかった。
今にして思えば惜しいチャンスを逃したかもしれない。
シカゴの親分を友人にできたかもしれないのに、残念だったかな。

それにしても米国人は大らかで、面白い人間が多い。
これからの旅先が益々楽しみになった。

私達の旅は、勝ちながら親善になるスポーツ外交だ。
ハワイ海兵隊、サンフランシスコオリンピツククラブ、西部選手権、
そして刑務所、と8戦し、全試合フォール勝ち。完勝だ。
ニューヨーク目指して頑張ろう!

米国人に馬鹿にされないために勝つ、という思いがあった。
強ければ誰にも馬鹿にされない。
そんな我々のNEWSが、報道されるようになっていた。

次はニューメキシコ
ここからが本当の、武者修業の始まりだった。
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