俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

震災津波と戦災に思う

東日本大震災からすでに3カ月以上が過ぎた。被災地のニュースを見る度に、自分が経験した戦争の恐ろしさや空襲の体験を思い出さずにはいられない。そしてあの時、敗戦にめげず、復旧復興を目指して必死にがんばった人々を誇りに思う。

6月9日現在で、東日本大震災の死者不明者数は合わせて20,000人超といわれる。震災と津波発生とその後の状況を、テレビやインターネットを通じてみてきた。瓦礫の撤去も着々と進んでいるようだ。しかし、まだ困難が次々あるようで、現地の被災者と関係各位の努力とご苦労に敬意を表したい。

Youtubeによって世界に流れた大津波の動画で、逃げ遅れ波に消えてゆく人びとを見るたびに、早く、早く逃げろと叫びたい思いで胸が熱くなった。運転中に流される車、逃げ切れずに、引き波に浚われ、見えなくなってしまう人びと。言葉にならない悲鳴の数々。津波の惨状は映像で随分みたが、悲惨だ。何とかもう少し早く逃げられないものか。頑張れ早く逃げろと、テレビを見ながら思わず叫んてしまった。

 ある町の緊急避難指令塔の3階で、我が身をかえりみず最後まで避難を呼びかけながら、家族を残して大津波に呑まれて亡くなった女性がいた。近頃は自分のことしか考えない人間が増えているなかで、悲しい美談だ。この女性の決死の避難呼びかけ放送が、今でも耳に残る。

津波が押し寄せるなか、逃げ惑う人々。それは東京大空襲のときにの自分に重なる。懸命に逃げて、命拾いした当時を思い出す。

 そこで、私の戦争体験を振り返ってみた。そこには今を生きる知恵があると思うからだ。
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疎開編1 にわか農家になる

2年間の疎開生活が私を鍛えた,
我が人生における最大の試練をこの生活で経験した。

なんでも自ら進んで実践する意志。考え、工夫して自分の力で作る知恵。経験者を見習う作法。自分で食糧を作り出す方法。そんな、生きて行く手段のすべてに通じる基本を学んだ。そして私はその後の人生で気づく。ああ、あの時の経験が役に立ったな、と。

1943年から終戦の年まで、我々家族は静岡県田方郡韮山村字多田に疎開した。私は疎開生として、韮山小学校3年に転校した。通学路は徒歩で約4キロだった。

古い家の前に竹薮と広い空き地、家の裏は畑。土地は500坪くらいで、かなり広かった。そこで自給自足の生活をはじめた。都会から流れ着いたにわか百姓だ。まず、家畜と農業用の用具類を買った。買うといっても現金ではない、当時金銭はあまり価値がなく、物々交換だった。一番の価値は食品だった。家は乾物などの食品問屋だったから、砂糖缶詰などを引っ越しの時に持参していた。それらの食料を渡して農業用具を得た。東京から持参した食料は、ほとんど用具に変わった。まず牛と運搬用の車、農耕用の用具、次に食用の家畜として鶏を20羽ぐらい。

鶏は家の縁の下で飼う、周りに竹の柵を設けた。柵は手作りで工夫が必要だ。牛は古い納屋を修理して牛小屋とした。これで我が家としては暮らしの準備ができた。農業はどうするか。韮山は稲作農業地だから、ほとんどが米農家だ。一方、我が家のような素人のにわか百姓にとって、米つくりは難しくて無理だ。そこで親父と相談して、サツマイモを作る事にした。

誰も関心を持たないような山の開墾用地を手に入れた。熱海峠に近い山の平坦地の開墾だ、毎日のように3時間かけて登っていき、開墾した、約3町歩だから9,000坪で約29,700㎡。私にとって最初の難仕事だった。なにしろ当時の私は8才で、クラスでも一番小さく、皆に馬鹿にされていた。それでも仕事に慣れてきて、牛車を牽いて開墾地に通うようになり、芋の収穫もできた。なにもかも初めての経験で、毎日が辛く苦しく、朝は起きたくなかったけれど、牛車を牽いたり、芋の収穫を見るようになると嬉しかった。そして何でもやるたびに「やれば俺にもできる」という自信がついた。こうなると毎日が面白くなっていく。

その間ももちろん通学していた。そしてやっと生活が落ち着いた頃には、家畜として牛1頭、鶏20羽、ウサギ3羽、子豚3頭を飼っていた。これはこれで、毎朝の餌やりが大変だった。趣味で飼うわけではない。自家用の大切な食材だ。鶏は玉子を得るためだったけれど、結局は鶏も牛も、成長した豚も、ウサギも食べるか物々交換に出してしまった。

努力の甲斐あって、サツマイモは売るほどの収穫。大仁の東洋醸造に売ったこともあった。ほかに栗林もあって収穫に恵まれていた。
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疎開編2 疎開生いじめに遭う

韮山小学校に転校した当初はよくいじめられた。他にも疎開生がいたけれど、疎開生はまず、話し方が違う。地元の生徒にとって、我々の言葉がおかしいようで、よくからかわれた、泣きべそをかくと、また弱虫と嘲われる。悔しいが、私は泣かなかった。いつも我慢した。

ある朝、登校中のこと。学校まで4キロ程の中間地点の田圃道で、集団暴行にあった。突然の事件だった。奴らは近くの火葬小屋に隠れて待ち伏せしていた。

私はとっさに親分らしき奴の股ぐらに片足で飛びつき、太ももに噛み付いた。その後は反撃に夢中で、何が何だかしばらくわからなかった。8名全員に攻撃され、最初は私を蹴ったり抑えていた。そのうちに廻りが静かになり、気がつくと誰も居ない。私の口もとには血がべったり、地べたにも血が溜まっていた。

私が親分を噛み付いたときの血に驚き、皆逃げたのだ。相手を倒して同時に倒れたあと、みな私を攻撃してきた。同時に倒れこんできたから重なりあった。だから、一番下の私は、何の被害もなく無傷だった。とっさの判断と親分へのタックルが我が身を守った。1対8でも急所を攻めれば勝てる。いざという時の、身を以て知った最初の体験だった。おかげで次の日からいじめはなく、襲ってきた隣部落の連中とも仲良くなった。これは他の疎開生のためにもよかった。

戦況は日毎に厳しさを増しているようで、この頃になると学校に行っても勤労奉仕ばかりだった。主に山で松の根を探して掘りだした。これは松根(しょうこん)油の材料となり、日本軍の飛行機の燃料の一部になるという。田圃でバッタを採る日もあった。それもお国のための勤労奉仕だった。
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東京大空襲

1945年3月10日。私は9才。小学4年。父と疎開先の伊豆韮山村から、4-5日の予定で上京していた。滞在先は、東京の大田区、休業中の蒲田の店だった。

お昼過ぎ。ラジオから大本営の空襲警報発令。遙か1万メートルの上空に無数のB29大型 爆撃機が出現し、編隊を組んで東京全域を爆撃し始めた。大本営や軍隊がある場所、主要な地域は爆弾投下。市街地、住宅街は焼夷弾が雨のように投下された。町は見る見る内に大火災。あたりは火の海と化していった。地元の人々は防空壕など普段訓練していた避難所に逃げ隠れた。

しかし父とはぐれた私は逃げ場が無かった。ただ本能的に町中を無我夢中で逃げ走り、やっとのことで、仲蒲田から玉川の下流、六郷川原に辿りついた。衣類は泥で汚れ、ぼろぼろ。身体が熱くて玉川に飛び込んだ。あの時の川の水は気持ちがよかった。「助かった」と自分一人で感動したものだ。

その後、玉川の堤防伝いに丸子橋、二子橋を越えて、川崎市久地の祖父母の家に着いた。深夜だったと思う。逃げるだけで無我夢中だったから、疲れは覚えなかった。幸い玉川の堤防はほぼ直線で、夜道も迷わない。やっと祖父母の家に辿りつき、力が抜けて動けなくなった。なにしろ10時間以上逃げまわったから、子どもにしてもかなりの距離だった。

思えば、韮山の開墾に3里(12km)の山道を歩いていた。牛車を牽きながら、熱海峠近くまで毎日通った。その辛さが、逃げる時の気力と体力を養ってくれた。

次の日。蒲田に戻った。途中は一面全焼。東京は見渡すかぎりの焼け野原だ。我が家の店など何処にあったか見当もつかない。何しろB29大型重爆撃機が600機、計画的に絨毯爆撃というから、どうしようもないわけだ。東京は焼け野原となった。死者もかなりいた。しかも防空壕の避難でかなり死んだ。かぶせた土砂の重みで潰れ、生き埋めになったという。私の親戚の家族も防空壕で死んだ。避難して命を落とすとは気の毒だった。
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沼津大空襲

東京大空襲で命拾いした。そして沼津に戻れば、今度は沼津大空襲である。第2の命拾いだった。

沼津に引っ越してからも、時々、B29がはるか上空を飛んでいた。それを沼津の連隊の高射砲が迎撃する。しかしB29の高度は10,000メートル。高射砲の到達距離は2,000メートルそこそこ。そんな能力では駄目だ。結局、沼津市にB29の爆撃があった。1945年7月17日のことだった。沼津は駿河湾を控えて、連隊本部や高射砲陣地など軍事施設があったので、それが爆撃の目標だった。しかし結局は沼津全体が爆撃された。

この日も私は運悪く空爆被災地の中を逃げる事になった。最後にたどり着いた所が沼津競馬場だった。広々とした馬場に数十頭の馬が放たれていた。実は厩舎や納屋が空爆で破壊消失し、馬の管理人なども被災して処分を検討中との情報。そこで600円で1頭買い、親父と共に馬をひいて歩いて韮山の家に帰った。家まで8時間ぐらい掛かった。

B29の爆撃のなか、逃げて逃げて命拾いの末、競馬馬が手に入るとは。この時ばかりは愉快な気持ちになった。歩ける、走れる。そして助かった。
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8月15日 終戦の日 温故知新

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1945年8月15日昼過ぎ、10歳の私は疎開地の、静岡県伊豆韮山村字多田村の農家の庭先で、ラジオの天皇陛下の玉音放送で日本が負けたことを知った。

耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……と云う天皇陛下のことばを、私は忘れない。いや、忘れられないのだ。

悔しかった,情けなかった。負けてたまるか、何時か勝つ、ただ漠然と国民を謀り、戦争に駆り立てた、軍事政府大本営を恨んだ。

大本営発表は、連合艦隊に多大の損害を与えたり、我が方の損害は軽微なり! ばかりであった。

真珠湾奇襲攻撃から広島長崎に原爆投下され、昭和45年8月15日の敗戦を天皇陛下の玉音放送で知った。


私は完全に日本政府や大人に不信感を抱くようになつた。今でもその影響は強いと思う。

「一億聡火の玉」「欲しがりません 勝つまでは」と、国家大本営に我慢我慢を強いられても負け戦。

10代の若き特別攻隊として、お国の為に散つた300万人の御霊を思うと、今でもこころが詰まる。特攻隊としてゼロ戦で戦死した従弟もその一人だった。

先のロンドンオリンピツクでは、TV中継の合間にBBCやNBCが、連日かなり長い時間をかけて、しきりと英国の戦争についてふれ、ナチスドイツの攻撃で、ロンドン市街の壊滅のような模様まで放映され、ナチスドイツ軍隊の様子と旗が度々画面にひらめいたりていた。ドイツの人達はあれをどんな気持ちで見て居たのかと気になった。

われわれも、かつて幾多の戦のなかで、国のために命を捧げた多くの御霊を忘れてはいけない。古きを学び、新きに生かす、温故知新の精神が肝要。

日本も2回目の夏季オリンピック開催を目指しているようだが、もし開催できれば、何十億人がテレビを見、インターネツトの情報網が拡大してゆく。だから、肥大の一途を辿るオリンピックは、国家宣伝にとってもまたとない好機である。
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大丈夫か日本

『負けて 勝つ!』
これは渡辺謙主演のドラマの題名です。
戦後日本を複興させた吉田茂の半生を描いた物語。

あの日。私は小学4年。
疎開中の韮山村の農家の庭先でラジオから流れた天皇陛下の詔勅。
 “耐え難きを耐え 忍びがたきを忍び……”

放送を聴いていた村人たちは茫然! その内にすすり泣きが聞こえました。
悔しくて 情けなくて
真夏の八月十五日。暑い昼下がりでした。

思えばこの3年間、大本営発表は決まって
 “我が方の損害は軽微なり”
 “敵に多大の損害をあたえり”
うそ、ごまかしばかりの発表だった。そして戦争は負けたのだ。

負けて勝つ 己への挑戦 

疎開生活は足掛け3年。家族は両親と私の3人。
食料確保のため、熱海峠近くの山中で原野を開墾。
サツマイモの生産、自給自足の俄か百姓の誕生。
裏の畑でサツマイモを作り、縁の下を利用して鶏と卵。
家庭用水は貰い水で、毎日30段の石段を上り下り。
バケツで水汲み、風呂は貰い湯。
“働かざる者食うベからず”

負けて勝つ 己に勝つ
戦争、疎開体験は 私の人生の基本なのだ。

新国立競技場のお粗末騒動
戦後70年、独立しない国

一身独立し一国独立す
福沢諭吉に学ぼう。

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沖縄少年の船

1971年、横浜市の藤が丘という町に住んでいた頃、
イワキノブコさんという女性が訪ねてきた。
少年の船という計画があって、
教育者として参加してほしい、参加者の募集にも協力してほしい
という話だった。

少年の船は、貸切客船を教場として
少年を船上教育しながらアジア諸国を訪ねるという。
始めは沖縄に行きたい。
激戦上陸の砂浜で、戦没者の慰霊のため“うみ行かば”をみんなで歌う。
その後、姫ゆりの塔など激戦の跡地を訪ねあるくという。

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写真素材 足成:客船


話し合いはかなり長い間、たぶん数時間にわたったと思う。
もっと長かったような気もする。

海上で650人の安全保障は無いという。
そんな彼女の説明を聞きながら、それでいいのかと自問自答。

 (Web担当より補足)
 海上どころか、沖縄だって安全とはいえない時期だった。
 沖縄はまだ米国占領下だった。本土復帰はその翌年、1972年だ。
 そして前年には沖縄でコザ騒動という暴動が起きていた。
 沖縄では米兵の犯罪が横行していた。
 しかし米軍の裁判で、いくつもの事件がうやむやになるなど、
 沖縄の人々は不平等な立場だった。
 米兵が酒酔い運転で沖縄人の女性を轢き殺した。
 これで沖縄の人々は我慢の限界に達した。
 3か月後、別の米兵が沖縄人を車ではねた。
 それがきっかけで、沖縄の一部の人々が暴徒化した。
 これがコザ騒動であった。

彼女は「保安のためにも、何としても私に同行してもらいたい」といった。
私は イワキノブコの熱意にほだされ、同行を決めた。

知人たちのこどもにも声を掛けた。数人の参加があった。
しかし安全保証の無い旅である。
万が一の時の時は責任者としてけじめをつけなくてはいけない。
そこで決心した。私の責任は娘の紀子と参加すること。
ここまでの決心は、団長イワキノブコさんも知らなかった。
彼女が知ったのは後からだ。
だから、私と娘の親子の乗船は誰も知らなかった。

人生意気に感ず。井脇ノブ子の熱意に! だ。
こうして少年の船沖縄に長女を連れて参加した。
女房は怒ったね。「紀子をあなたの活動の犠牲にするんですか」と。

多くの父母に見送るられ東京芝浦を出港した。
父母たちは皆、先ずはわが子の無事を願った。

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写真素材 足成:海と空と島


洋上教室などの活動は順調だった。
しかし太平洋の海原に出てから、夜間に突然高波発生した。
船が前後にゆれる。その内に左右のゆれもだんだん激しくなる。

子供達がさわぎだした。嘔吐者が出始めたからだ。
吐くための容器がない。急いで食堂から借りた。
その数が次第に多くなる。

なぜだろうと観察すると、
どうも他人の嘔吐姿を見ている生徒が多かった。
嘔吐を見ていた者までが容器をかりて自分も嘔吐!
次から次へと 嘔吐の連鎖ががはじまって、
リーダーの大学生まで吐き始めた。

世話する立場の大学生が助けられている。
これには呆れた。
「嘔吐は病気にあらず 命に別状なし」と
学生リーダーに喝!
大げさにさせると 群集心理で混乱さらに混乱する。
各々が互いに氣を沈めるようにと指導した。

その内に海がもっと荒れ始めた。
船の揺れがますます激しくなり、
自動販売機や食堂のテーブル、イスなど、
固定していない物すべてが動き始めた。

大きく右の傾くと、大きなモノも小さなモノも滑るように右へ行く。
今度は反対側に傾いて、また一勢にすべって、壁に当たって大音響。
左へ滑り、右にぶつかりの連続が、高波の静まるまで続いた。

面倒は汚物の処理捨て場だ。これは「水洗だ」と大海原へ投棄。
やっとのことで沖縄の埠頭に接岸し、
船を宿にして「沖縄に学ぶ」の教習が始まった。


私は長い間 現場で教育活動をしてきた。
人を預かる責任は重い。だから「先生」には時に決心が肝要だ! 
嵐の海で、私は魂に誓った。「娘は必ず守る!」
それは「参加者みんなが無事なら娘も無事だ」という意味だ。
いろいろあったけれど、沖縄少年の船は大成功だつた

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写真素材 足成:沖縄の夕日


奢る平家は久しからず。
元衆議院議員いわきノブ子さん
ホームページは見つかったけれど、更新が止まったままだ。
今はどうしているんだい?
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我慢で勝つ - イジメに負けない我慢

戦中の疎開時代の話。伊豆韮山小学校4年だった。

「生意気な東京疎開野郎」と莫迦にされ、登下校時に集団暴行でイジメられた。
原因はクラスの自己紹介だ。
先生が「得意はなんだ」というので、教壇に行き、教育勅語を大声で暗唱した。
このことが 学校中に広がり、毎日いじめられた。

村から片道約5キロの通学。その時に“我慢する事”を覚えた。
Country Roads
Country Roads / contri


野中の田んぼ道で集団暴行を受けた事など度々だった。
誰にも言わず我慢した。
いじめは数か月続いた。
我慢した。
そのつど服はやぶれ、カバンは壊された。
我慢した。
教科書も破れた。
無抵抗で我慢した。

我慢すること!

貴重なる体験として生涯忘れられない。
そのうちに皆、諦め、何もしなくなった。
我慢が勝。後に番長が親友になった。

負けて勝!己の勝つ!
ネバーギブアツプ!

人生にもつながる。
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番長に噛みつき勝ち!

昭和19年 空襲を逃れ
伊豆の韮山村字多田に疎開した。

蒲田小、高津小に続く3度目の転校で、
韮山小学校では
「生意気な東京疎開チビ!」と噂された。

教育勅語以来イジメの連続で嫌な日が続いた。
2か月が過ぎてもいやがらせは続いていた。
あの日は学校帰りの田んぼ道で
隣村の集団生徒7-8人につかまり集団イジメをされた。

韮山|Nirayama
韮山|Nirayama / izunavi


激しかった。なぐる。ける。つかむ。
ボコボコにやられた。

私は逃げながらも「挑むしかない」と判断した。
番長を攻撃だ!
番長に片足タックルで飛びつき、太ももに噛みついた!
ガツチリ噛みついたまま抑え込み!

数分が過ぎたろうか。

あたりは静かで誰もいない。
血だらけの番長を見て、皆、逃げたのだ。
あたり一面は血だらけ。私も血だらけ。
もちろん番長も血だらけでオイオイ泣いている。
番長が泣いた。子分は皆逃げた!
集団イジメとの血闘だ!

以来、チビの東京疎開は怖い! と
学校でも噂が広まり、逆に通学時の友人が増えた。
番長は隣村の上級生だった。
付き合うようになった。
弱いと平和は崩れる。強いと平和を維持できる。

私にも平和が来た。
昨日の敵は、今日の友。
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