俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

東京大空襲

1945年3月10日。私は9才。小学4年。父と疎開先の伊豆韮山村から、4-5日の予定で上京していた。滞在先は、東京の大田区、休業中の蒲田の店だった。

お昼過ぎ。ラジオから大本営の空襲警報発令。遙か1万メートルの上空に無数のB29大型 爆撃機が出現し、編隊を組んで東京全域を爆撃し始めた。大本営や軍隊がある場所、主要な地域は爆弾投下。市街地、住宅街は焼夷弾が雨のように投下された。町は見る見る内に大火災。あたりは火の海と化していった。地元の人々は防空壕など普段訓練していた避難所に逃げ隠れた。

しかし父とはぐれた私は逃げ場が無かった。ただ本能的に町中を無我夢中で逃げ走り、やっとのことで、仲蒲田から玉川の下流、六郷川原に辿りついた。衣類は泥で汚れ、ぼろぼろ。身体が熱くて玉川に飛び込んだ。あの時の川の水は気持ちがよかった。「助かった」と自分一人で感動したものだ。

その後、玉川の堤防伝いに丸子橋、二子橋を越えて、川崎市久地の祖父母の家に着いた。深夜だったと思う。逃げるだけで無我夢中だったから、疲れは覚えなかった。幸い玉川の堤防はほぼ直線で、夜道も迷わない。やっと祖父母の家に辿りつき、力が抜けて動けなくなった。なにしろ10時間以上逃げまわったから、子どもにしてもかなりの距離だった。

思えば、韮山の開墾に3里(12km)の山道を歩いていた。牛車を牽きながら、熱海峠近くまで毎日通った。その辛さが、逃げる時の気力と体力を養ってくれた。

次の日。蒲田に戻った。途中は一面全焼。東京は見渡すかぎりの焼け野原だ。我が家の店など何処にあったか見当もつかない。何しろB29大型重爆撃機が600機、計画的に絨毯爆撃というから、どうしようもないわけだ。東京は焼け野原となった。死者もかなりいた。しかも防空壕の避難でかなり死んだ。かぶせた土砂の重みで潰れ、生き埋めになったという。私の親戚の家族も防空壕で死んだ。避難して命を落とすとは気の毒だった。
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疎開編2 疎開生いじめに遭う

韮山小学校に転校した当初はよくいじめられた。他にも疎開生がいたけれど、疎開生はまず、話し方が違う。地元の生徒にとって、我々の言葉がおかしいようで、よくからかわれた、泣きべそをかくと、また弱虫と嘲われる。悔しいが、私は泣かなかった。いつも我慢した。

ある朝、登校中のこと。学校まで4キロ程の中間地点の田圃道で、集団暴行にあった。突然の事件だった。奴らは近くの火葬小屋に隠れて待ち伏せしていた。

私はとっさに親分らしき奴の股ぐらに片足で飛びつき、太ももに噛み付いた。その後は反撃に夢中で、何が何だかしばらくわからなかった。8名全員に攻撃され、最初は私を蹴ったり抑えていた。そのうちに廻りが静かになり、気がつくと誰も居ない。私の口もとには血がべったり、地べたにも血が溜まっていた。

私が親分を噛み付いたときの血に驚き、皆逃げたのだ。相手を倒して同時に倒れたあと、みな私を攻撃してきた。同時に倒れこんできたから重なりあった。だから、一番下の私は、何の被害もなく無傷だった。とっさの判断と親分へのタックルが我が身を守った。1対8でも急所を攻めれば勝てる。いざという時の、身を以て知った最初の体験だった。おかげで次の日からいじめはなく、襲ってきた隣部落の連中とも仲良くなった。これは他の疎開生のためにもよかった。

戦況は日毎に厳しさを増しているようで、この頃になると学校に行っても勤労奉仕ばかりだった。主に山で松の根を探して掘りだした。これは松根(しょうこん)油の材料となり、日本軍の飛行機の燃料の一部になるという。田圃でバッタを採る日もあった。それもお国のための勤労奉仕だった。
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疎開編1 にわか農家になる

2年間の疎開生活が私を鍛えた,
我が人生における最大の試練をこの生活で経験した。

なんでも自ら進んで実践する意志。考え、工夫して自分の力で作る知恵。経験者を見習う作法。自分で食糧を作り出す方法。そんな、生きて行く手段のすべてに通じる基本を学んだ。そして私はその後の人生で気づく。ああ、あの時の経験が役に立ったな、と。

1943年から終戦の年まで、我々家族は静岡県田方郡韮山村字多田に疎開した。私は疎開生として、韮山小学校3年に転校した。通学路は徒歩で約4キロだった。

古い家の前に竹薮と広い空き地、家の裏は畑。土地は500坪くらいで、かなり広かった。そこで自給自足の生活をはじめた。都会から流れ着いたにわか百姓だ。まず、家畜と農業用の用具類を買った。買うといっても現金ではない、当時金銭はあまり価値がなく、物々交換だった。一番の価値は食品だった。家は乾物などの食品問屋だったから、砂糖缶詰などを引っ越しの時に持参していた。それらの食料を渡して農業用具を得た。東京から持参した食料は、ほとんど用具に変わった。まず牛と運搬用の車、農耕用の用具、次に食用の家畜として鶏を20羽ぐらい。

鶏は家の縁の下で飼う、周りに竹の柵を設けた。柵は手作りで工夫が必要だ。牛は古い納屋を修理して牛小屋とした。これで我が家としては暮らしの準備ができた。農業はどうするか。韮山は稲作農業地だから、ほとんどが米農家だ。一方、我が家のような素人のにわか百姓にとって、米つくりは難しくて無理だ。そこで親父と相談して、サツマイモを作る事にした。

誰も関心を持たないような山の開墾用地を手に入れた。熱海峠に近い山の平坦地の開墾だ、毎日のように3時間かけて登っていき、開墾した、約3町歩だから9,000坪で約29,700㎡。私にとって最初の難仕事だった。なにしろ当時の私は8才で、クラスでも一番小さく、皆に馬鹿にされていた。それでも仕事に慣れてきて、牛車を牽いて開墾地に通うようになり、芋の収穫もできた。なにもかも初めての経験で、毎日が辛く苦しく、朝は起きたくなかったけれど、牛車を牽いたり、芋の収穫を見るようになると嬉しかった。そして何でもやるたびに「やれば俺にもできる」という自信がついた。こうなると毎日が面白くなっていく。

その間ももちろん通学していた。そしてやっと生活が落ち着いた頃には、家畜として牛1頭、鶏20羽、ウサギ3羽、子豚3頭を飼っていた。これはこれで、毎朝の餌やりが大変だった。趣味で飼うわけではない。自家用の大切な食材だ。鶏は玉子を得るためだったけれど、結局は鶏も牛も、成長した豚も、ウサギも食べるか物々交換に出してしまった。

努力の甲斐あって、サツマイモは売るほどの収穫。大仁の東洋醸造に売ったこともあった。ほかに栗林もあって収穫に恵まれていた。
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震災津波と戦災に思う

東日本大震災からすでに3カ月以上が過ぎた。被災地のニュースを見る度に、自分が経験した戦争の恐ろしさや空襲の体験を思い出さずにはいられない。そしてあの時、敗戦にめげず、復旧復興を目指して必死にがんばった人々を誇りに思う。

6月9日現在で、東日本大震災の死者不明者数は合わせて20,000人超といわれる。震災と津波発生とその後の状況を、テレビやインターネットを通じてみてきた。瓦礫の撤去も着々と進んでいるようだ。しかし、まだ困難が次々あるようで、現地の被災者と関係各位の努力とご苦労に敬意を表したい。

Youtubeによって世界に流れた大津波の動画で、逃げ遅れ波に消えてゆく人びとを見るたびに、早く、早く逃げろと叫びたい思いで胸が熱くなった。運転中に流される車、逃げ切れずに、引き波に浚われ、見えなくなってしまう人びと。言葉にならない悲鳴の数々。津波の惨状は映像で随分みたが、悲惨だ。何とかもう少し早く逃げられないものか。頑張れ早く逃げろと、テレビを見ながら思わず叫んてしまった。

 ある町の緊急避難指令塔の3階で、我が身をかえりみず最後まで避難を呼びかけながら、家族を残して大津波に呑まれて亡くなった女性がいた。近頃は自分のことしか考えない人間が増えているなかで、悲しい美談だ。この女性の決死の避難呼びかけ放送が、今でも耳に残る。

津波が押し寄せるなか、逃げ惑う人々。それは東京大空襲のときにの自分に重なる。懸命に逃げて、命拾いした当時を思い出す。

 そこで、私の戦争体験を振り返ってみた。そこには今を生きる知恵があると思うからだ。
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地震津波被災地の皆様へ

 
 
地震津波被災地の皆様へ
 
 
 
この度の東日本太平洋沖地震、大津波による災害犠牲者の方々へお悔やみと、負傷者被災者の皆様に心からお見舞い申し上げます。
 
 
 

オレゴン 平田 孝
 
 
 
 
 
 
 
 


#管理人より
このエントリのコメント欄はレスリング協会関係者様や平田氏ゆかりの方々の安否確認、情報交換にお使いいただけます。ただし個人情報の過度な露出にご注意ください。
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日本レスリング協会インタビュー

2月16日、18日に、日本レスリング協会の記事でご紹介いただきました。
【特集】目指せメジャースポーツ!…ローマ五輪代表・平田孝さんからの熱きメッセージ(上)
【特集】目指せメジャースポーツ!…ローマ五輪代表・平田孝さんからの熱きメッセージ(下)

ありがとうございました。
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平田孝略歴とあゆみ 2011版

平田孝(ひらたたかし) 略歴とあゆみ

1936年  ・1月15日東京都大田区大森に生まれる
       ・曽祖父は岐阜市天台宗寛照院住職、西南戦争参加、その後
        行方不明。祖父義時大正末に上京。浅草にて漬物の製造販
        売ハリハリ漬を考案。その後、父義光が平田屋として海産
        物、乾物の卸業として浅草より築地市場に店舗を出すとと
        もに大区蒲田に卸店舗を構える。第2次大戦中は非常用食
        品缶詰保管所に指定され、大田区蒲田地区27万人の食料
        配給所の一つとなる。

1940年  ・大田区蒲田加藤幼稚園入園

1942年  ・蒲田新宿小学校入学

1944年  ・空襲激化により静岡県田方郡伊豆韮山村多田に疎開。
       ・韮山小学校編入(2年生)

1945年  ・8月15日終戦 敗戦

1947年  ・川崎市高津区高津国民学校転入(5年生)

1949年  ・川崎市立新制中学校入学

1951年  ・法政大学付属第二高等学校(法政二高)入学

1954年  ・法政大学経済学部入学
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米国とは比較にならない学生スポーツの現状に改めてビックリ

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 山口県の高校のバスケットボール大会を見学した。

 会場は下松スポーツ公園体育館という市立体育館で、建物だけは立派だった。2面のコートで10校が対戦していたが、場外にも館内にも看板などがなく、小生のように藪から棒に観戦したものには、ただのバスケットボールの練習試合としか思えなかった。大会名、対戦学校名、トーナメント表などどうして掲げないのだろうか。

 さすがに電光掲示板だけは一流で、タイムと時間を告げるのだが、同行した太田先生の解説がなかったら、ほとんど状況が判らず、最後まで退屈しただろう。観衆を無視した関係者の試合のセッティングに呆れた。華がないし、がんばった者を大勢で称えるという空気もない。

 米国では今がバスケットボールのシーズンで、小中校大学まで全米各地で盛んに開かれている。どの会場も多分盛況だろう。たとえば孫のケネディのバロウ高校あたりでも1,500人ぐらいの観衆がいる。観戦はもちろん有料で、一般は5ドル。シニア(老人)は3ドルである。リーグ選の上位ランキング校の中には、観客3,000人~5,000人。東部地方の名門校になると8,000人。大学になると15,000人の観客数も珍しくない。

 これだけでもなかなかの規模だ。しかし、これでもフットボールの比ではない。フットボール上位50校になると、自前の競技場の座席は平均で35,000席、さらに上位校は50,000席になる。オレゴン大学は55,000席。私の長女夫妻が卒業したオレゴン州立大は40,000席。フロリダ大、オクラホマ大は85,000席。ノートルダム大、ペンステーツ大は100,000席、ミシガン大は108,000席。

 先日、フットボールの全米決勝戦が開催された。東のアーバイン大と西のオレゴン大の対戦で、双方の公平を期すために、中間地であるアリゾナ州のフェニックス大学のドームで開催された。このドームは55,000人を収容する。普通席券600ドル。バイバック(買い戻し)価格が8,000ドル。これは決して珍しいことではなく、全てのスポーツは原則入場料でまかなう。これが米国式だ。

 観客動員と収入と云う、学生スポーツに大切な資金源を考えない関係者は、「無努力」「無能力」「意気地なし」の三拍子である。彼等は何のために海外研修に行くのだろうか。今回見たところ、日本のスポーツ界は資金調達のための観客動員施策について、まったく成長していない。そもそも、学生の大会が平日学業のある時間帯に開催されるとはどういうことか。米国では特に限られた全米最終決勝戦など以外には、休校して試合に行くなど考えられない。そもそもどの学校もそんなことは許可しないのだ。

 日本の学生スポーツの現状にはなんと申し上げたらいいか。最近ではスポーツアナリストとか云う商売人が米国体験をネタに能書きを云うようで、ときどきTVで拝見すると滑稽である。米国のことを語るなら、30~40年、いやせめて20年は住んで体験を積んでからにしろと云いたい。
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我が家にはレスリングマットがある

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オレゴン州の人口は約280万人。中高大学クラブ合わせて、約350の施設でレスリングマットを使用している。だいたい1校で2面使用しているとすれば、米国の総人口を約2億4000万人とすると、その数は何万セットという規模になるだろう。

レスリングマットの公式サイズは約10メートル四方で、中に円を描いている。これは1957年に米国で初めて円形マットとして開発された。現在は全ての室内競技の安全対策にも使用されている。普段はこれを3枚に分け、海苔巻きのように巻いて収納できる。ロールにしてベルトをかけ、台車に載せて所定の場所に移動する仕組みだ。中学生が3、4人いれば、2、3分で収納可能である。

我が家にも3人の孫が幼児期にレスリング遊びをするために、ガレージにレザライト社のレスリングマットを敷いている。特殊なスポンジのような材料の製品で、1辺が10m。これが3枚で1面の競技マットとなる。継ぎ目は特殊テープで貼るが、このテープは剥がしてもまた使えるので便利だ。1957年に八田会長が「日本でもどうだ」とすすめたが、採算が合うとか会わないとか、ぐずぐずしてどの会社も研究しなかった。

このころから今に至るまで、日本のスポーツ関係者とスポーツ専門家と云う人たちは米国の優れたところ学ばないように思う。米国はオリンピックでも国の予算は使わない。自力更生型の米国スポーツを学ぶべきである。
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日本行脚の記

・第10回全日本マスターズレスリング選手権大会
 1月16日。マスターズ大会ではヘルシンキ五輪の最年長レスラーで中大OBの米盛先輩、私が出場したローマ五輪の監督、笹原正三さん、そして往年の名選手にお目にかかれたことがなによりでした。元気なればの再会で感慨もひとしおでしたが、その影で消えていった戦友を思うと一抹の寂しさを禁じ得ませんでした。

・四日市-金沢 
 1月17-18日。何はともあれ、何時ものように四日市の岩名秀樹兄夫妻を訪問。山海の珍味などご馳走三昧で栄養をつけた。
 1月19日。寿美子夫人の特製弁当持参で金沢へ。
 金沢駅には鈴木龍男会長と前会長でかつてのライバル原田記之さんに出迎えられ、その後星稜高校でマットでの講習と父兄講演。そして懇親会に移り、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。
 以外だったのは、2、3年前に重病だと風の便りで聞いた原田紀之さんがとてもお元気でした。45年前ニューヨークでの全米選手権決勝で私と激戦した話を皆に語り、結局、彼の独演会のようでした。最後は全員でホテルまで送ってくれ、優しさに感激でした。
 鈴木龍男会長はじめ、前会長原田紀之さん、金沢に最初に少年レスリングを開いた竹田義和さん、マスターズで小生の目の前で2勝して優勝した山岸善雄さん、小生の金沢訪問の全てを仕切り小生の紹介資料の作成など準備してくれた理事長の筒井昭好城南中学教諭に心から感謝。金沢のレスリングが益々活躍することを心から祈ります

・山口県柳井 1月20日。山口県柳井市柳井斉藤道場勝村靖夫館長を訪ねる。
 太田先生に徳山駅で拾ってもらい、まず太田先生の長女、永美子さんの高校のバスケットボール観戦。1試合を観てから斉藤道場まで送り届けてもらう。小中校大学の練習終了後、私のための歓迎会を開いてくれて一同大いに歓談。思いがけなくビデオCDなどの専門家にめぐり合い、小生持参のビデオをCDに作成してもらうことになった。これは幸運。
 宿泊は合掌造りの3階のようなところで、なんだか忍者屋敷で寝ているようで興味津々。なかなかおもしろかった。
 小生の朝の出発が柳井発06:00で勝村先生には早朝から大変ご迷惑をかけたことを心からお詫びします。駅まで送って頂き有り難う御座いました。

・新大阪駅
 1月21日。08:45。新大阪中央口で堺中体連の泉谷光孝氏と会う。泉谷氏は元中学校長で、現在は大阪千代田短期大学生涯学習課長とのこと。コーヒーで時間を潰しながら懇談後、氏の馴染みのすし屋「がんこ」で久しぶりの握り寿司をご馳走になる。仕事の話に花が咲くが、ついに時間切れとなり、新大阪発12:13ひかり510号に乗車。品川駅にて井上桂兄の迎えの車で相模原の井上宅に泊まる。

・栃木へ
 1月23日。05:00。栃木県に向かう。兵藤三郎さん夫妻の顔が見たいので行ったが、茂木君の話では 「小幡洋二郎兄が両親の自宅介護でたいへんだ」という話もあった。一寸顔だけでもと思って行ってみると、日曜だけは兄弟に介護をたのみ館林校のレスリング合同練習の指導を10時からやっていると云う。その間兵藤夫妻宅を訪ね、朝食は小幡兄のニューミヤコホテルの朝食バイキング。そのあと兵藤家に戻り、暫く民生委員老人クラブについて懇談。大いに関心させられる話だった。

 10:00に小幡兄を訪ねて、合同練習を見学。今年は同地から3人のアジア大会代表が出たとのことで、小幡兄も意気軒昂だった。

・墓参り、打ち合わせ
 その後東京に戻り、八田一朗夫妻の祭られている目黒の五百羅漢寺を訪ねる。次に我が父義光と叔父義三男の墓を参る。
 17:00。リコーの菊池さん、山口さんと新橋の新橋亭で食事。その後井上桂兄の家に戻り泊まる。

 1月24日。早朝に井上君と同時に発って、小生は登戸の叔父平田商店の義昭夫妻を訪ねる。歓待されて朝食をご馳走になり叔父に駅まで車で送られる。降りるときに「ほれ電車賃だよ」といって千円くれた。ぐっと熱い思いがこみ上げた。感動した。「平田本家は俺が継いでるから心配無用」と云ってやりたかったが、今平田の本家は米国にある。

 13:00に今井清吉兄、大平光洋兄(早大OB)とホテルオオクラテラスガーデンで昼食。大平兄とは1957年の米国遠征以来だから、実に55年ぶりだった。今度は彼の事務所を訪ねるつもりだ。その後今井君の案内で彼の新事業と事務所を訪ねた。
 夕方、杉山淳一君が迎えにきてくれたので、今井夫妻を誘い浜松町の貿易センタービル38階の東京會舘離宮飯店に招待。4人で食事をした。何時も今井君にはご馳走になっているので、良いチャンスだった。
 1月26日。最後の日はトルコの本多さんとの出版本の話。それに彼の青山学院の後輩で留学希望の植村友哉君が助手として同席した。本田君の経験話は大いに小生の参考になったが、杉山君にはどうだったか……。まあ同業者の経験を聞くのは良いことだと思った。

 このころから風邪で咳き込み難儀した。熱はないのだが咳には往生した。未だにその余韻が残っている。馬鹿は風邪をひかないと云うが、今まで10回以上も風邪にかかっているから、私はかなり良いほうなのだろう。
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