俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

三島由紀夫さんの眼光

1961年春、三島由紀夫さんが朝霞自衛隊体育学校における日本レスリング協会主催春の選手強化合宿を見学にきた。

私は強化コーチで選手の指導中。誰も三島さんに気付かず、そのうちに付き人が折りたたみ椅子を持ち出し、体育館道場の隅に三島さんを導いた。三島さんは両膝を合わせ、姿勢を正し、両腕を組み、マツト上の練習に見入っていたようだ。

50分程して、私がマットを下りて行くと、三島さんは練習の様子に感動したらしく
「なぜレスリングは、こんなに強くなったのか?」
と問うので、私は次のように説明した。

日本レスリングは、毎年の米国武者終業を元に、世界の強国のトルコ・ソ連・ブルガリアなどへ遠征修業でしている。外国の技の習得に努力し、選手皆が持ち帰った技を、他の選手に伝える。それと同時に、日本武道の精神や、合気道・柔道の技を取り入れて、日本人の体に合った、日本レスリングを目指している、と。

P2130044.jpg要するに「八田式」だ。当時世間で言われた「八田イズム」「根性」「大和魂」のレスリングを強調して説明した。そしてこの合宿は「ローマの仇は東京で」を合言葉に、われわれローマオリンピックの惜敗メンバーが中心になって、指導していると説明した。

午後の練習は3時間で、最初の30分は準備運動スパーリング(組み合い)が2時間。訓話で練習は終了。

作家・三嶋さんが見学に来た時に私たちはスパーリングを開始した。私が三島さんに説明した時間は40分程度だったから、彼の見学は2時間以上だ。熱心に練習に見入る、三島由紀夫さんの眼光鋭い姿が印象深い。それまでの他の見学者とは異質な人物に思えた。

今思えば、あの時から「何かを決する覚悟」「憂国」「日本の将来」を考えていたのだろうか? ただの作家ではないような?直感があった。

当時の八田会長曰く、「自衛隊の選手は自分を守る事ばかりで相手を攻めない。あれではだめだ。勝負にならない。だから、日本レスリングは体育学校で合宿し、自衛隊員に刺激と気合を入れるのだ」それを聞き、ぐっと歯をかみしめて私を見つめていた作家三島由紀夫さんの眼光が印象に残っている。

いまの日本の政治はどうだ。守るばかりで相手を責めない。勝負にならない。いや守りすら満足にできていない。尖閣問題を機に、大使館始め日本企業や商店など、多くの日本人が、暴力的被害を蒙ったという。日本政府は、未だに毅然とした態度で解決の意思を示せない。意気地なし腰抜け政府の無力外交に失望した!

1970年、三島さんの事件の起きたニュースを聞いた時も、そしていま、中国からの報道を見聞きした時も、自衛隊合宿での三島由紀夫さんの眼光が私に突き刺さる。日本には、ああいう人はもういないのだろうか。気骨と能力ある大和男、あるいは大和撫子は!

日本沈没という小説、映画があったけれど、このままでは日本は隣国に脅かされ、外交の海に沈没しそうだ。問題は日本が精神的に、意志力的にも弱い国だからだ。今の日本には覇気が乏しい、残念無念でならない。
ジジ通信 | comments (0) | trackbacks (0)

イジメられた思い出 疎開時代

P5240226.jpg■昔のイジメ

子供の頃、体が小さいので「チビ、チビ」とからかわれはじめた事からイジメが始まった。特に疎開時代が酷かった。縁故疎開で伊豆の学校の小学校3年生クラスに入ったが、疎開者として差別され馬鹿にされた。特に東京弁がみんなの笑いの種だった。

村から学校までは約4キロ。田畑ばかりで民家など建物はなかった。入学当時は友達もなく毎日一人で通学した。他の村の生徒たちに毎日のように、からかわれ、いじめられた。あまりしつこいので文句をいうと「疎開のくせに生意気だ」「チビのくせに生意気だ」「東京弁で生意気だ」とののしられた。

いろいろ苦慮したのだが、やはり親にも先生にも相談できなかった、いや相談したくなかったのだ。相談したら又毎日仕返しされると思ったし、男らしくないと思った。いやがらせやイビリは殆ど毎日ようにやられた。とうとう相手は手出しをするようになり、私の肩掛け鞄や、鞄の中の学用品、教科書など壊したり破いたり。私が我慢していると、こんどは集団暴行だ! 相手は四、五年生の6人。殴られたり蹴られたりやられ放題だ。

ある日、下校途中、待ち伏せされ、その6人による暴力がはじまった。私は咄嗟にリーダーと思しき相手の股座にしがみつき、しばらくして。気がついたら周りに誰も居ない。泥足で蹴られ、ぼこぼこ殴られ、しばらく立ち上がれなかった。相手を見たら泣きながら太ももを押さえていた。回りは血だらけだった。私が必死に股にタックルし、噛み付いたからだつた。残りの5人はそれを見て逃げたと、後で判った。

その後、村でも学校でも噂が広がり、その日以来私への暴力はすっかり止まり、友達も増えた。

家族との疎開。2年間の自給自足のニワカ農業とイジメの経験は、その後の人生に大きな自信と勇気を与えてくれた。戦争中で食べる事が第一で、イジメも暴力的ではあった。しかし、現代のイジメのような陰湿なものとはちがった。辛い経験ではあったが、現在の事件のようには至らなかった。

■今のイジメ

文部科学省によると、イジメとは

「相手に肉体的心理的な苦痛をあたえ、その快楽を楽しむことを目的に行なわれるさまざまな行為」

とある、ピンからキリまで様々な行為があるという。あの大津のイジメ事件は、私が想像するに、どうも最初は「けなし」「茶化し」「イビリ」だ。それが昂じて「ゆすり」「たかり」「暴行」とエスカレートしたように思える。

「最悪となる前の相談を」と関係者はいうが、自分の経験では、両親や、先生に相談など、なかなかむずかしい。告げ口などは自尊心が邪魔するし、結果として大きなイジメとなって返ってくる。その恐さが先に立つ。

そこで重要なのが、担任はじめ周囲の先生や校長教頭と連携した生徒観察だ!

大津市の中学生自殺事件を知ったのは確か2012年7月の初旬。ネットの報道を読むと、自殺事件は、2011年10月11日だという。なぜ、今頃になってから騒ぎ出したのかと思ったら、自殺した息子の死に対して、父親が訴訟を起こし、マスコミが報道し始めたからだ。それまでは、学校長も教育委員会も事件をひた隠し、事実を隠蔽工作! 50名近くの教員も右へ習え。

大津市は8月に調査組織を立ち上げ聞き取り調査、10月には外部有識者による加害者とされる同級生3人の聞き取り調査を近く始めるという。

3ヶ月間かかって、やっと聞き取り調査とは……何処かで今日も、弱い者イジメの犠牲者が苦しみ泣いていると思うとたまらない気持ちになってくる。

大津の事件では、調査がはじまってから、その辺の状況が全然説明されないまま、すでに4、5ヶ月が過ぎた。

この間にも、品川区の中学生自殺、名古屋高二女子の遺書を残しての飛び降り自殺、都内の私立中高一貫校での中一男子の自殺など、イジメによる死を疑われる事件が後を断たない。

大津のイジメと自殺事件は未だに埒が明かない? 警察の捜査はどうなったのか? 

大切な子供の命をまもる為に、警察は事件の捜査活動だけでなく、事件を未然に防ぐ働きも出来るのではと思うが、この問題を取り巻く人達の意識も変わらないとできない事か。

■イジメに負けない子を育てよう

米国でも小中学学校のイジメは大きな問題だ。しかし州によって法律が異なり、問題は複雑だ。州内でも学校区によって対応の違いがある。障害、窃盗など明らかであればすぐに警察が入って捜査がはじまるが、やはり事件と認めるに至る判断が難しいといわれる。イジメの加害者に軽い体罰を認めている州もあるそうだが、何処の州でもイジメ防止には悩んでいるようだ。

私は、スポーツ道場によって、「心と体を鍛え、世の中何処へ行っても和して生きられる人間」の育成を目指す。青少年育成活動を40年以上日米で開いてきた。すべてはレスリングと少年時代の自己経験からだ。寝食を共に延べ8000人以上と接して、事故怪我は皆無。教育は指導者の熱意である。イジメは世の中から消えないと思うが、教師の指導力が足りないと増えることは確かだ。

いざと云う時は、当たつて砕けろ、やれば出来る! 何ごとも卆先垂範!

戦国時代の盗賊石川五右衛門ではないが、世にイジメの種は尽きまじ!

何でも勝つ手気ままに暮らせる時代でも、自分の守りは自分! 努力を怠らずに心と
体を鍛えることが、イジメに勝つ基本だと思う、

イジメは 弱い者イジメから始まるのだから。 
ジジ通信 | comments (0) | trackbacks (0)
Information
T Hirata_top.jpg
  • 心と体を鍛え
    地球上どこへ行っても
    胸を張って生きられる
    知的な野生人になろう
Profile
メールはこちらから
Categories
New Entries
Recent Comments
Archives
Other