俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

米国武者修業(5) UCLAへ、食事と体重管理

囚人島で交流試合を無事終えた次の日、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを渡った。合衆国最長の吊り橋。当時は世界最長の吊り橋だった。ちなみに現在の最長は瀬戸大橋である。
Chesapeake Bay Bridge
Chesapeake Bay Bridge / Craig Stanfill


それはともかく、長い吊り橋を割ってオークランドへ。西部選手権に参加した。日本勢は軽量3階級に勝利、中量級は善戦した。しかし重量級は体力が及ばず残念な結果だった。

サンフランシスコ近郊の試合を終え、グレーハウンドバスに乗った。いよいよ米国一周、12,000kmの武者修業の始まりである!

この武者修行、道中の心得として、

ひとつ、移動中は日の丸の制服(学生服)着用のこと。
ひとつ、旅券泌帯。
ひとつ、選手団は全員グレーハウンドバスの全米周遊券持参。
ひとつ、就寝は夜行バス。
ひとつ、食費は試合の入場料収入で賄う!
ひとつ、飲食物はストアーで買う!
ひとつ、体調、体重調整は、車中自己責任!

■食事について
貧乏修行旅行だからレストランなどに入るなど贅沢だ。グロセリーストアーが街中にあるので、移動中に飲料水と野菜を買うつもりである。食費は試合の観戦料から、つまりファイトマネーで賄う。どれだけお客が入るかわからないから倹約する。

それでもみな日増しに体重が増えてきた。理由は肉料理の食べすぎと練習不足だ。ハワイ以来、朝食はハムエッグかソーセージエッグ、昼食は肉を挟んだサンドイッチ、夕食のメインも肉料理。当時の日本食は魚と野菜と米。それで満腹してきた。こちらでは日本食の分量と同じくらい肉を食べて満腹にする。それは肥る訳だ。

貧乏旅行だけど、肉など食べ物は手頃な価格だった。米本土に到着以来、UCLAのまでの短期間で、ちょっとは空腹感があった。しかし、私をはじめ誰もが太り始めた。

■体重について
公式試合は当日の計量が厳格で、1グラム超過でも失格だ。

普段練習時の私の体重は63kg。これを試合の時は57kgに落とす。公式戦は、52キロフライ級だ。出場試合を目標に練習を始め、最終的にはサウナで決める。予選会では出場希望階級の2キロオーバーだった。私の場合は54キロで、もしオーバなら上のクラスに変更するか、または計量失格!と云うことになる。

今回の転戦試合は2キロオーバーだった。常に体重調整が不可欠である。今夜は、UCLAで試合だ。朝から食事抜き。それでもまだ2キロオーバーだった。

ただし非公式の交流試合や親善試合は双方の監督の話し合いで決める。今回の遠征試合は自らの修業が目的だから、すべて現地のコーチの要望に従う。この時は特に体重について、日本チームは全選手オーバーウエイトが著しかった。


より大きな地図で 俺言魂 米国武者修業(4) を表示

早朝にサンフランシスコを出発、600kmの道のりでロサンゼルスのバスターミナルに着いた。UCLAレスリング部のハント監督の案内で宿舎に到着。ハント監督は元軍人レスラーというツワモノであった。

到着当日、夜7時。体育館で親善試合とあいなった。観衆5,000人。軽中量級は順調に勝ったが重量級が苦戦。団体では引き分けという好試合で、観衆も沸きに沸いた。

戦前カリフオルニアに移住した日本人は多い。日本米の開拓者コーダ米のコーダ農場などがその代表である。この時はまだ日本人の観客は目立たなかった。米国人と連れ立って訪れる人もいたように思う。そして、ハワイ日系会、オークランド日系会、UCLAでも日系会の方々の日の丸を振る姿が印象深かった。

このあと、我々日本選手がハワイ、サンフランシスコ、と好成績を残しながら転戦しているという新聞報道が広がり、行く先々で日系人の観衆がふえていった。特にロスでは日系社会も大きく、我々の活動が話題になっていた。

試合後日系老人夫妻が来て、私たちに「戦時中自分たち日系人は収容所に入り苦心したが、今日は堂々と日の丸が振れた。皆さんありがとう!」と激励してくれた。そして、一諸に来たらしい同年代の米国人夫妻と、楽しそうに笑談しながら去って行った様子が印象的だった。

あのとき、日の丸を手に応援してくれた日系人の皆さんの思いが魂に響いた!

ちなみに、今もポートランドのわが家の米はコーダ米である。
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

米国武者修業(6) レスリングの試合は全て有料

ロスに到着後、ハントさんが運転する迎えの車に乗り、1時間半ほどぐるぐる走った。そうして最後に「ここが宿舎だよ」と下ろされた。ここで我々はビックリさせられた。なんと、1時間半もドライブしたエリア、街だと思っていたところは全部、キャンパス内だった。ハントさんはUCLAの学内を1時間半かけて案内してくれたのだった。

UCLA Campus
UCLA Campus / picdrops


米国では、大学のキャンパスは街である。一方、フェンスのあるキャンパスは……それは刑務所であった。後にハリウツドやビバリーヒルズも車から見た。見るだけでもうたくさん、という気分になった。米国は広いな、スポーツ馬鹿では駄目だな、と思った。これが武者修業のテーマだ。"心と体を鍛えよう"!

UCLAは、1919年に開学したカリフオルニア州立大学ロサンゼルス校だ。2012年の時点で4,000人の職員と34,000人の学生が在籍する。米国を代表する教育、研究拠点で、世界的に知名度が高い。NCAA(大学スポーツ連合)でも過去最多の優勝を獲得しているし、プロ選手の輩出も多く、全米はもとより、留学生は世界百数十カ国に及ぶ。フツトボールは "PAC12"に所属。ローズボール競技場(91,500人収容)を有する大学である。

UCLA滞在最後の日。ハントさんがパサデナにあるローズボール競技場を案内してくれた。実に見事なスタジアムだった。現在は正面の大スクリーンなど、最先端技術を駆使した設備のスタジアムだが、55年前も収容人員は10万人だった。昔とあまりかわらない。

UCLA!
UCLA! / hans s


ローズ・ボウルと同様に、他にコツトンボール、オレンジボールなど、今では30以上のボールゲームが全米各地で開催されている。フツトボールは正にスポンサーが喜ぶ、スポーツビジネスの見本のようなものだ。

レスリングも米国では人気スポーツ。試合を開催すると入場料が入り、その一部が我々の軍資金になるからありがたいことだ。ちなみにUCLAの場合、入場料は大人5ドル、老人3ドル。学生と子共は無料だった。
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

米国武者修業(7) ローストビーフと海兵隊---サンディエゴ海軍基地


より大きな地図で 俺言魂 米国武者修業(7) を表示

サンディエゴは現在、カリフォルニア州でロサンゼルスに次ぐ第2の都市だ。人口122万人。

私の武者修行当時も、ガラス張りエレベーターのあるビルなどがあり、南国調の明るい感じの都市だった。アメリカ合衆国の最南西部、西は太平洋、南はメキシコに面する国境の都市。今では西海岸州でも有数の国際都市という。

San Deigo 2007
San Deigo 2007 / 剛


レスリングの縁で、当地のヨットクラブハーバメンバーの好意を受けた。送迎のお世話をいただき市内を見学。ヨットハーバーでは、クラブハウスで歓迎の昼食パーティーも開かれた。海面が見えぬ程のヨットの数。帆柱はまさに海の林! ただタマゲルばかり。江ノ島のヨツトハーバーを思い出しても、こりゃ駄目だ! 負けだ大負けだ! 比較にならない。

クラブハウスで昼食会の後、海兵隊の正門でクラブの皆さんと別れる。

サンディエゴはメキシコ国境沿いに位置し、隣はメキシコ国のテワナ市だ。当時はフリーパスで往来自由だった。現在は麻薬の持込犯罪の増加で、米国入国は極めて厳重という。そんなテワナ市は、世界の工業、医療のハイテク企業などで栄え、メキシコ経済の拠点の一つとなっているそうだ。でも、当時はバラックの建物が目立ち、お世辞にも良い町とは言いにくかった。

それはさておき、我々日本チームは、サンディエゴの海兵隊に招かれ2泊した。

まず、施設の紹介。
NTC (Naval Base San Diego,National Traning Center)は太平洋艦隊の主要母港で訓練基地でもある。面積は5.27平方キロメートル。大型艦船の桟橋が13に、飛行場と広大な野外、屋内訓練場などがあり、最高水準の設備だ。当時の所属隊員は3万余名。それを世話する4千余名の一般職員が働くという。

サンディエゴは海軍の拠点
サンディエゴは海軍の拠点 / iandeth


そのNTCに午後到着。外来宿舎に入る。早速NTCレスリング関係者の親切な説明、案内が3時間にわたり、ほぼ全施設を車中より見学した。岸壁に連なる大型艦船にまた仰天! 米国には、こんな基地がいくつもある。バージニアのノーフォーク(これは世界最大)、フロリダのメイポート、ハワイのパールハーバー、メリーランドのボルチモア。この軍備を見たら、誰も戦争なぞ仕掛たくないはずだった。ちなみに現在、日本の横須賀を母港とする旗艦ブルーリツジは、第7太平洋艦隊のNTCに所属しているらしい。

我々はここでNTCチームとレスリングの親善交流試合。観衆は隊員が多かった。軽量級は好調に勝ち続けたが、やはり重量級で追いつかれ、とうとう引き分け。どこの試合でも、日本チームの悩みは重量級だ。相手は普段から、軍事トレーニングとレスリング、そして肉食で鍛えられた身体。職業選手のようなものだった。

身長190cm、体重120kg前後の筋骨たくましい選手が揃った部隊チームだ。体力差は歴然。我々の相撲的な体格は、寝技を多要する競技には不向きなのだ。日本の重量級選手は対戦ごとに自信を無くし、意気消沈するようすが残念だった。

しかし軽量級で勝ったから、全体としては好試合で、隊員や家族は大喜び。おかげで滞在中の食堂のサービスも一段と上がった。日本と米国の体力の違いは食生活の違いだ。ローストビーフは其の代表的例だった。

翌日は米側の要望で、午前中にレスリングマット4面を使って講習会を開いた。そこで我々は日本独自の技を披露した。これは米国隊員達の関心を集め喜ばれた。参加選手と大勢の見学隊員に、柔道や合気道の技を取り入れた日本レスリング流を披露。独特の投げ技、足技などが特に好評だった。2時間の講習は大好評で、交流は成功だ。

これは、自分にとって良き教訓となった。毎日何かを学ぶ。これが修行なのだ。

次ぎはニューメキシコ、また挑戦だ。

勝つと注目される。強くなければ注目されない。
勝負は勝つことだ!
あしあと | comments (11) | trackbacks (0)

米国武者修業(8) 全盲レスラーと試合---ニューメキシコ

これからは夜行バスでの車中箔が多くなる。
アルバカーキーまで約1300km。ニューメキシコの首都へ。
いよいよ長距離バスの旅のはじまりだ。移動は全米を繋ぐグレーハウンドバス。
大型のトイレ付きで、フリーウェー(高速道路)を平均時速70マイル(112km/h)でかっとばす。

武者修業といっても、松尾芭蕉や宮本武蔵と違い徒歩の旅はない。移動は全てバス。
寝てれば目的地に着くのだから有りがたい。ローストビーフで体調は万全、懸念はオーバーウェイト、夜行便は食わずに寝るに限る。

試合毎回夜間に開催。日曜は無し。この州では親善試合のみ。州内を1000km以上も走りながら眺めるので、下車して観る用もない。


より大きな地図で 俺言魂 米国武者修業(8) を表示

武者修業といっても、松尾芭蕉や宮本武蔵と違い徒歩の旅はない。移動は全てバス。
寝てれば目的地に着くのだから有りがたい。ローストビーフで体調は万全、懸念はオーバーウェイト、夜行便は食わずに寝るに限る。

試合毎回夜間に開催。日曜は無し。この州では親善試合のみ。州内を1000km以上も走りながら眺めるので、下車して観る用もない。

Albuquerque Sunset
Albuquerque Sunset / Woody H1


試合会場はアルバカーキーの屋内競技場。会場は満席。
ニューメキシコ州選抜チームとの対戦。私の試合は、中盤に行なわれた。

場内アナウンスが有り急に会場が静かになる。マットに上がるまでのコーチ等のしぐさで、相手は盲人選手ではないかと感づいた。

何も深く考えることもないし、考えてもしょうがない、試合をするまでだと思った。
レフェリーが相手選手を導きながら中央に来た。レフぇリーは無言で、互いに握手。

試合開始の合図の笛! 同時に静寂となる。私は相手を見ながら構えようとしたが、相手は、両手の平でマットを撫でる様にして耳をそばだてている。瞬間、私は気付いた、相手は私の足の動きを悟るために音を聞いているのだ。そのためにアナウンサーは場内に静粛にしてくれるよう説明したのだ。

両手をマットに這わす。相手選手の形が蜘蛛か、今にも獲物に飛び掛る猛獣のようだ。
一瞬、目のやり場を失った。盲人選手だから目を見ても意味が無い。相手は私を攻撃できないので、マットから手に伝わる感覚で私の動きを察知しているようだ。

目が見えないから先攻できない。
だから、私の動きを探りながら攻撃のチャンスを掴もうとしている。

この間は数十秒だったと思う。

katamari wrestling!
katamari wrestling! / emdot


私もなんだか不気味で、チャンスが掴めず躊躇しながら、立ち技時間は修了。
寝技は相手が専攻で、ノーポイント。後攻で私がトーホールドから相手を一回転させてポイントを獲得。

勝てた。しかし、私は精神力で完全に負けていた。

格闘競技に盲目選手が挑戦する精神。フロンティア精神に熱烈に感動した。
試合後、改めて握手を求め彼の健闘を称えた。

観衆から褒美に投げ銭の雨!
観客席から拍手と歓声が沸き起こり、マットの上に、"投げ銭" が降って来た。
歓声と投げ銭はかなり続き、拾い集めるのに忙しかった。

25セント硬貨を一ドル紙幣で包み、マットに投げ込まれる。その数が約600個。
中には5ドル、10ドル、20ドル紙幣もあり、1000ドル以上の収穫だった。
当時ニューヨークの地下鉄が15セント均一だったから、1000ドルは米国でも大金だ。
日本円公定換算で36万円に相当する。

観衆が勝敗のみに拘らず、双方を褒める。
そんな観戦マナーの見事さに敬服させられた試合だった。

米国人の開拓魂とフェアプレー精神。リッパさに脱帽!

Savings Time
Savings Time / kozumel
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

米国武者修業(9) 思い出のセロリ、パセリ、トイレ---グランドキャニオン

■菜食で体重調整

ラスベガスはバス移動中に車中から見学できた。貧乏武者修業者が立ち寄るところではない。見るだけで充分だ。
ラスベガスのウエスティン9Fからの眺め
ラスベガスのウエスティン9Fからの眺め / kawanet


グランドキャニオンは違う。実に素晴らしい!
当時は見晴らし台のような建物がなかった。あれは多分見学者の危険防止、安全のため止むを得ず作られたのだろう。私たちが訪れた当時は、本当に自然なままの景観だった。私はこの後、世界各地で、さまざまな自然の大景観を見てきた。しかしグランドキャニオンの"スゴサ"は格別であった。
river
river / Wolfgang Staudt


ところで、ここで食べたニンジン一袋と、瑞々しいセロリの味が今でも忘れられない。
新鮮なニンジンとセロリをかじりながら眺める世界の大渓谷!

よーく見ると、深い谷底に豆粒のように見える……船?
圧感だ! いちいち興奮する度にニンジンを齧り、セロリを食らう!

他の選手はだれも知らない。私はバスが出発する前に、近くのグロセリーストアで26オンス(737g)の家庭用食塩1本と、セロリ20本入り1袋、ニンジン20本1袋を買い、減量、体重調整食と決めていた。

米国選手のレスリング感も掴んできたし、米国の空気にも慣れ始めた。行く場所ごとに人びとの気質や生活も異なる。他民族国家が米国だ。

これからは3月の全米選手権が目標だ、体重調整は食事で出来ても、練習は試合だけでは不十分だ。

■トイレトレーニング 夢想式(車中箔中に夢に出た発想) 

くさい話で恐縮。

筋力維持だけは必須! どこまで出来るか考えたがトイレが最適! バスはだいたい2時間に1度、乗降客の休憩と給油に停まる。そこにトイレは必ずある。しかし全部有料コインを入れる自動式。自分が乗ってるバスのトイレは無料で制限時間なし。

早速開始!アイソメトリック、近年日本でいう静的運動だ。これに対し、走る・跳ぶ・投げる・格闘するなどは動的運動でアイソトニックという。

スクワット、しゃがんで立つ運動を1000回。その合間に合掌して20~30秒間、左右均等に押し合う。これを繰り返す。長時間トイレに立てこもると他の人に迷惑かけるので、20~30分でいったん退場。これを思いのままにバスの道中で繰り返す。

以上をグレーハウンドの夢想式トイレトレーニングという。

もちろん用足しもする。爽快だ!

Greyhound Bus Terminal, 33rd and 34th Streets between Sevent...
Greyhound Bus Terminal, 33rd and 34th Streets between Sevent... / New York Public Library
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

レスリングで歩んだ ローマへの道 -1-

レスリングで世界を回った。

1957年の全米武者修業が終わり、全日本も順調に進み、
1958年のトルコ遠征、1959年ブルガリア遠征、
黒海周辺のソ連共和国への単独武者修行と続くことになった。

私の夢の始まりは中学時代なのだ
「強くなりたい」「米国に勝ちたい」私の執念だった。

戦時中、飲まず食わず、我慢と忍耐、
“欲しがりません 勝つまでは”
蒲田の我が家は消失せ、戦争に負けた後も‘ないない’づくし
あるのは我慢と忍耐のみ。

私にはもうひとつ目的があった。
アメリカに対する“敵討ち“だ。
レスリングで敵討ち!
だから特に 対アメリカ選手には闘志が沸いたのだ!

これからはスポーツで戦う。世界よ、勝負だ! 

20151013.jpg
写真素材 足成:古い地球儀2


はじめは古橋選手で

1948年6月。水泳の古橋広之進選手が
米国ロサンゼルスの水泳全米選手権で
1500メートル自由形で勝った。
18分19秒0の世界新記録で勝った!

日本の古橋が世界記録で米国に勝った!
と、ラジオが叫んだ。

マツカーサー元帥が祝辞を送り、
当時の名優ボブ・ホープがサインを貰いに駆け寄った。
アナウンサーの興奮が、私の魂を熱くした。

俺もいつの日か アメリカを見返してやる!  
それはレスリング! 

レスリングを始めたのは石井選手の活躍の感動からだ。
レスリングの石井庄八選手(中大OB)は、
1952年ヘルシンキオリンピックで、バンタム級(57)で勝った。
日本選手団唯一の“金メダル”獲得に日本人は湧いた!

「体重制競技のレスリングなら
 “小さな俺”にも出来る やればきっと出来る!」

自信が沸いた。

当時、私は川崎市高津新制中学3年生。
法政二高にレスリング部は出来たが、道場がない。指導者もいない。

私は毎日単身、他校に見習い稽古へ行った。
と云っても、レスリングの練習の仕方を知らないし、相手も居ない 

したがって、“見るだけのレスリング”を3ヶ月ぐらい続けた。
毎週、東京の富坂(文京区小石川)にある中央大学レスリング道場に見に行った。

外から窓越しの見学だ。
見習い稽古、イメージトレーニングだ。

単独練習は自宅の桃の木を相手にタックルとシャドウ(動作)
体力作りとしてロードワーク。
早朝、暗い内に二子橋~玉川~多摩川橋を一周した。
時には世田谷まで歩を進めた。
毎日平均10~15キロだ。

あとは、読書。
宮本武蔵や三四郎の“己に勝つ“ための読書だ。
先人伝記などを読んだ。

私が目標とした2人の先輩

古橋広之進選手の世界新記録、石井庄八選手の金メダルに刺激され
夢の実現に向かい 一人走り続けた。

初めは外から見るだけだった中央大学は、
米国武者修行後は特に歓迎してくれた。
稽古後の風呂は大先輩たちと肩を並べて入浴できるようになった。

中央、慶応、明治、国士舘、そして日本体育大学大学の道場には
大変お世話になり感謝している。

自分を鍛える為に、修行と他流稽古は欠かせない。
実力は全てを解決する。努力だ。やれば出来るのだ。何事も!

これからは 世界単独修行だ!
レスリングを手段に武者修業に出よう!
ヨーロツパ、中東、アジア、世界の大地が見たい!
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

挑戦が好きだ グレコでローマ

1958年秋
私は全日本レスリング選手権で、
フリースタイルとグレコローマンスタイルの両種目を制覇した。
日本レスリング界初の ダブル優勝”だった。
同時に両種目のローマオリンピツク候補選手に選ばれた。
フリーで一番が証明できた。
そして夢は“グレコローマンスタイルで五輪金メダルに挑戦”になった。

母校法政大学の校歌に私の好きな一節がある

若き我等が命のかぎり
ここに捧げてああ愛する母校
われ人ともに認めたらずや 
“進取の気性 質実の風”
青年日本の代表者


私は何でも“始めて”に感心がある。
実行がすきだ。
失敗は成功の基だ。
挑戦が好きだ。

レスリングも同じだ。
フリースタイルでは全米、国体、全日本
その他、国際試合でも充分競技し満足した。
フリースタイルは全日本も米国も勝つた  

新たな己への挑戦は“グレコでローマ”だ ! 。
日本初の“グレコローマンレスリング”
ローマオリンピック日本代表!
“金”を目指そう!

それが、我が“進取の気性”、“質実の風”だ!

www.army.mil
www.army.mil / The U.S. Army


日本レスリング協会は1960年ローマオリンピツクに
フリーとグレコ代表派遣を定めた。
私は両種目の代表候補選手だったのだが
私はグレコローマンでローマ大会を目指すことにした。

1958年にオールジャパンチームの一員に選ばれ、
アジアトルコ遠征をした。
私は協会の承認のもと、
イスタンブールのトルコナショナルチームの長期合宿に参加した。
3ヶ月の単身参加だった。
当時のトルコは世界からレスリング王国と称されていた。
世界1の強国であり、なおかつ特別親日国だったので、
私の参加は歓迎された。

View from Topkapı Sarayı (Istanbul, Turkey)
View from Topkapı Sarayı (Istanbul, Turkey) / t-mizo


在トルコ日本大使館も大使、事務次官はじめ皆、私に協力を惜しまず、
特にトルコ中近東情勢に経験豊富な本多さんには大変お世話になった。
本多さんのご子息、賀文さんは現在、日本レスリング協会役員である。
イスラム教の風習とトルコ語の習得など、
3ヶ月のトルコキャンプで得たものは大きい。

その後、単独で黒海周辺国にレスリング修業に向かった。

 


参考資料 トルコが親日って本当?現地に住むからわかる8つの真実 | Spin The Earth

日本・トルコ合作映画『海難1890』12月5日(土)公開 公式サイト
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

トルコのトイレ ローマへの道 -2-

イスタンブールの町はヨーロツパ側
レスリングキャンプの“ヤカジク村”はアジア側

間にはボスポラス海峡 その奥は黒海だ。ウクライナはその先だ。 
当時の通行は連絡船。(現在は日本建設の海中トンネルがある!)

一寸不便な田舎だが、合宿には最適だ。 

毎日高原の山登りと道場。
練習後は大きなシャワー場で選手と“裸の付き合い”日本流の背中流しだ。
困ったのはトイレの紙。トルコ人(回教)は紙を使わない水洗いだ。
在トルコ日本大使館の本田さんが心配して、毎週のように“差し入れ”に来てくれた。
このトイレツトペーパーは一番助かった!

しかし私の目的は修行。異文化体験だ。
修業でのわがままはだめだ!
水洗い練習に専念!
はじめは“かめ”の水が上手く“おしり”にかからずてこずった。 
かめの水を何本も使ったが、やつと“一かめ”で洗えるようになつた。
大成功!
トイレの“手動式水洗”は清潔で爽快?

おかげでその時の習慣は58年後の今も続いている。
これが武者修業の旅に役立ったことは言うまでもない。

トルコでの修行には日本大使館大使・領事
特に現地に詳しい本多さん(本多賀文さん(日本レスリング協会)の父)に
中東諸国の歴史 風習 其の他多岐にわたり、助言 薫陶 いただき感謝は尽きない。

教訓 何事も郷に入れば郷にに従え! 

3ヶ月90日の長期キャンプを無事終了。
首都アンカラ 古都の遺跡の町など数千キロを巡る旅を無事終了。

Ankara Express, Turkey - アンカラエキスプレス(トルコ)
Ankara Express, Turkey - アンカラエキスプレス(トルコ) / kawanet


次はトルコと並ぶレスリング強国ソ連共和国! 
語学は英語にトルコ語。
黒海周辺国はトルコ系の人も多いと聞く
また楽しみが増えた 継続は力なり!
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

短刀腰にレスリング武者修行 ローマへの道 -3-

1959年の遠征を終えた私は、チームを離れて単身で各地を転戦した。
パキスタンもレスリング修行のために行った。

パキスタンはイスラム教の国だ。

イスラム教については昨年のトルコの合宿で体験で言葉もかなり理解できた。

カラチ空港に出迎えてくれたパキスタン人のレスリングの友と滞在計画を相談した。
パキスタンは一部の緑地帯を除き、領土の大半が砂漠地帯だ。隣国はアフガ二スタン。
そこで私は比較的に緑の多いコースを選び、カラチの次の都市としてイスラマバードを選んだ。
約1200キロのグリーン山岳地帯。川もあり水もある。
主食料は鶏だ。生きた鶏を足を結んでぶら下げる。
鶏の解体用に刃渡り28センチの小刀を用意した。
P3200058.jpg

そのときの小刀は現在もBBQに大活躍中だ!
P3200059.jpg

パキスタンの旅は3週間、野人生活も無事終了

1957年は米国、翌年はトルコ。そして3度目はパキスタン。
当時、世界最高の米国での体験からイスラム教社会を体験し、生きる力を修行で学んだ。レスリングを通じて得た物は大きい。

チャンスを与えてくれた我がレスリングの父、恩師八田一郎に感謝

”修行とは当たつて砕ける”その繰り返しだ!

スポーツ選手は相手を知るために修行せよ!

精神修行は稽古の第一だ。己に勝つ選手が栄光を掴むのだ

次回はスポーツ馬鹿の話!
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

スパイ疑惑を晴らした耳 - アフガニスタン  ローマへの道 -4-

パキスタンからアフガンに向かう。

アフガニスタンの周辺国には、語尾に“スタン”のつく国が多い 。
イスラムでは“スタン”とは国と言う意味らしい。
パキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン……
60年前はソ連の連邦国(CCCP)で、世界的なレスリング強国だ。ソ連が崩壊しロシアとなり、各“スタン”は独立国家になった。

レスリングの修行巡りはパキスタンから次の訪問国アフガニスタンへ。

Lake Band-e-Amir, Afghanistan
Lake Band-e-Amir, Afghanistan / Carl Montgomery


厳しい検閲!多量のフィルム持参にスパイ疑惑!

検問所に到着した。持ち物や身体検査は厳しい。

特に撮影カメラ関係の調べが厳重だ。撮影済みカラーフィルム30本、新品20本、合計50本は問答無用で開封された。

二人の検査官が一本一本、ケースから引き出し、全フイルムを明かりに向けて検視。映像無しと判断すると次々に大型ごみ箱に投げ捨てられた。

疑い深くフイルムをむしり取り捨てる監査官たち。野蛮なアフガニスタンの検問所。

Soldier inspection
Soldier inspection / The U.S. Army


醜い耳もケガの功名?

はじめはフイルム持参のスパイと疑われたが、最後には“耳のカリフラワー”がレスリング選手であることを証明してくれた。調理用短刀を腰に下げていたというのにスパイ疑惑も解消された。

”醜い耳もケガの功名”だ。

私はそれまでの3年間に米国始め、アジア、ヨーロツパと十数か国を訪ねたが、通関でトラブル、問題視されたことなど皆無。

アフガニスタン訪問をあきらめた。安全第一。命あっての物種だ。世界最先端の文化国家アメリカから、砂漠未開地の多いパキスタンまで渡り歩いた。しかしこのこの異常な厳重さに「アフガンは危険な国」と決断した。3か月の貴重なフイルムの損失は大きいが命は惜しい。

されど私がアフガンで得た精神的な収穫は大きい。
米国からアフガンを体験し、天国と地獄を見た思いがした。

あれから60年近くが過ぎたが、周囲諸国での紛争は未だ絶えない。

今でもネットニュースでアフガニスタンを見かけると、当時が鮮明に蘇る。
茫漠とした砂漠大地が目に浮かぶ……。

130211-A-YI554-468
130211-A-YI554-468 / USASOC News Service
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)
Information
T Hirata_top.jpg
  • 心と体を鍛え
    地球上どこへ行っても
    胸を張って生きられる
    知的な野生人になろう
Profile
メールはこちらから
Categories
New Entries
Recent Comments
Archives
Other