俺言魂(おれごんだましい):平田孝 スポーツ教育者

心と体を鍛え
地球上どこへ行っても
胸を張って生きられる
知的な野生人になろう

男が弱いと日本はつぶれる!

先月半ば 確か14日の報道だが
レスリング世界選手権ラスベガス大会
日本男子レスリングが惨敗! 5位以内ナシ!

日本男子は来年のリオデジャネーロ五輪出場枠なし!

レスリング協会福田会長“懺悔の丸刈”で帰国 
空港にスキンへツドであらわれ 
国民に詫びる姿を!

私は、それをみて何とも云えぬ 情けなさを感じた
負けた選手全員、コーチともども揃えて詫びるなら解かるが?
なぜ 自分だけ頭剃るのか?

選手が弱いから負けた。
最終的な責任は会長だが、
その前にコーチや関係者、選手だろう。

会長が一人で謝るのはおかしい

Wrestling World Championships Scene
Wrestling World Championships Scene / familymwr


日本の女子は好成績だったらしい。
今、世界で、あらゆる競技に女子が進出し活躍している

だからよけいに男のだらしなさが気になるのだ。

レスリングはオリンピツクの最古より男の競技。
“格闘は男の役目”だったのだ!

福田会長に“おカネ”ばかり頼っているようでは 
とうてい“金メタル”は望めない

日本男子レスリング選手よ
人に頼らず 
世界を知る!自己研鑽!に励むことだ
それには 武者修行が一番!

私たちはローマ五輪で苦渋を舐めたが
“ローマの仇は”TOKYOで を                        
合言葉に指導にあたつた

1964 TOKYOを
金メダル五つ並べて花の宴

平田 孝

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レスリングで歩んだ ローマへの道 -1-

レスリングで世界を回った。

1957年の全米武者修業が終わり、全日本も順調に進み、
1958年のトルコ遠征、1959年ブルガリア遠征、
黒海周辺のソ連共和国への単独武者修行と続くことになった。

私の夢の始まりは中学時代なのだ
「強くなりたい」「米国に勝ちたい」私の執念だった。

戦時中、飲まず食わず、我慢と忍耐、
“欲しがりません 勝つまでは”
蒲田の我が家は消失せ、戦争に負けた後も‘ないない’づくし
あるのは我慢と忍耐のみ。

私にはもうひとつ目的があった。
アメリカに対する“敵討ち“だ。
レスリングで敵討ち!
だから特に 対アメリカ選手には闘志が沸いたのだ!

これからはスポーツで戦う。世界よ、勝負だ! 

20151013.jpg
写真素材 足成:古い地球儀2


はじめは古橋選手で

1948年6月。水泳の古橋広之進選手が
米国ロサンゼルスの水泳全米選手権で
1500メートル自由形で勝った。
18分19秒0の世界新記録で勝った!

日本の古橋が世界記録で米国に勝った!
と、ラジオが叫んだ。

マツカーサー元帥が祝辞を送り、
当時の名優ボブ・ホープがサインを貰いに駆け寄った。
アナウンサーの興奮が、私の魂を熱くした。

俺もいつの日か アメリカを見返してやる!  
それはレスリング! 

レスリングを始めたのは石井選手の活躍の感動からだ。
レスリングの石井庄八選手(中大OB)は、
1952年ヘルシンキオリンピックで、バンタム級(57)で勝った。
日本選手団唯一の“金メダル”獲得に日本人は湧いた!

「体重制競技のレスリングなら
 “小さな俺”にも出来る やればきっと出来る!」

自信が沸いた。

当時、私は川崎市高津新制中学3年生。
法政二高にレスリング部は出来たが、道場がない。指導者もいない。

私は毎日単身、他校に見習い稽古へ行った。
と云っても、レスリングの練習の仕方を知らないし、相手も居ない 

したがって、“見るだけのレスリング”を3ヶ月ぐらい続けた。
毎週、東京の富坂(文京区小石川)にある中央大学レスリング道場に見に行った。

外から窓越しの見学だ。
見習い稽古、イメージトレーニングだ。

単独練習は自宅の桃の木を相手にタックルとシャドウ(動作)
体力作りとしてロードワーク。
早朝、暗い内に二子橋~玉川~多摩川橋を一周した。
時には世田谷まで歩を進めた。
毎日平均10~15キロだ。

あとは、読書。
宮本武蔵や三四郎の“己に勝つ“ための読書だ。
先人伝記などを読んだ。

私が目標とした2人の先輩

古橋広之進選手の世界新記録、石井庄八選手の金メダルに刺激され
夢の実現に向かい 一人走り続けた。

初めは外から見るだけだった中央大学は、
米国武者修行後は特に歓迎してくれた。
稽古後の風呂は大先輩たちと肩を並べて入浴できるようになった。

中央、慶応、明治、国士舘、そして日本体育大学大学の道場には
大変お世話になり感謝している。

自分を鍛える為に、修行と他流稽古は欠かせない。
実力は全てを解決する。努力だ。やれば出来るのだ。何事も!

これからは 世界単独修行だ!
レスリングを手段に武者修業に出よう!
ヨーロツパ、中東、アジア、世界の大地が見たい!
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)

挑戦が好きだ グレコでローマ

1958年秋
私は全日本レスリング選手権で、
フリースタイルとグレコローマンスタイルの両種目を制覇した。
日本レスリング界初の ダブル優勝”だった。
同時に両種目のローマオリンピツク候補選手に選ばれた。
フリーで一番が証明できた。
そして夢は“グレコローマンスタイルで五輪金メダルに挑戦”になった。

母校法政大学の校歌に私の好きな一節がある

若き我等が命のかぎり
ここに捧げてああ愛する母校
われ人ともに認めたらずや 
“進取の気性 質実の風”
青年日本の代表者


私は何でも“始めて”に感心がある。
実行がすきだ。
失敗は成功の基だ。
挑戦が好きだ。

レスリングも同じだ。
フリースタイルでは全米、国体、全日本
その他、国際試合でも充分競技し満足した。
フリースタイルは全日本も米国も勝つた  

新たな己への挑戦は“グレコでローマ”だ ! 。
日本初の“グレコローマンレスリング”
ローマオリンピック日本代表!
“金”を目指そう!

それが、我が“進取の気性”、“質実の風”だ!

www.army.mil
www.army.mil / The U.S. Army


日本レスリング協会は1960年ローマオリンピツクに
フリーとグレコ代表派遣を定めた。
私は両種目の代表候補選手だったのだが
私はグレコローマンでローマ大会を目指すことにした。

1958年にオールジャパンチームの一員に選ばれ、
アジアトルコ遠征をした。
私は協会の承認のもと、
イスタンブールのトルコナショナルチームの長期合宿に参加した。
3ヶ月の単身参加だった。
当時のトルコは世界からレスリング王国と称されていた。
世界1の強国であり、なおかつ特別親日国だったので、
私の参加は歓迎された。

View from Topkapı Sarayı (Istanbul, Turkey)
View from Topkapı Sarayı (Istanbul, Turkey) / t-mizo


在トルコ日本大使館も大使、事務次官はじめ皆、私に協力を惜しまず、
特にトルコ中近東情勢に経験豊富な本多さんには大変お世話になった。
本多さんのご子息、賀文さんは現在、日本レスリング協会役員である。
イスラム教の風習とトルコ語の習得など、
3ヶ月のトルコキャンプで得たものは大きい。

その後、単独で黒海周辺国にレスリング修業に向かった。

 


参考資料 トルコが親日って本当?現地に住むからわかる8つの真実 | Spin The Earth

日本・トルコ合作映画『海難1890』12月5日(土)公開 公式サイト
あしあと | comments (0) | trackbacks (0)
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