疎開編1 にわか農家になる

2011.06.21 Tuesday 13:13
ott_sugi


2年間の疎開生活が私を鍛えた,
我が人生における最大の試練をこの生活で経験した。

なんでも自ら進んで実践する意志。考え、工夫して自分の力で作る知恵。経験者を見習う作法。自分で食糧を作り出す方法。そんな、生きて行く手段のすべてに通じる基本を学んだ。そして私はその後の人生で気づく。ああ、あの時の経験が役に立ったな、と。

1943年から終戦の年まで、我々家族は静岡県田方郡韮山村字多田に疎開した。私は疎開生として、韮山小学校3年に転校した。通学路は徒歩で約4キロだった。

古い家の前に竹薮と広い空き地、家の裏は畑。土地は500坪くらいで、かなり広かった。そこで自給自足の生活をはじめた。都会から流れ着いたにわか百姓だ。まず、家畜と農業用の用具類を買った。買うといっても現金ではない、当時金銭はあまり価値がなく、物々交換だった。一番の価値は食品だった。家は乾物などの食品問屋だったから、砂糖缶詰などを引っ越しの時に持参していた。それらの食料を渡して農業用具を得た。東京から持参した食料は、ほとんど用具に変わった。まず牛と運搬用の車、農耕用の用具、次に食用の家畜として鶏を20羽ぐらい。

鶏は家の縁の下で飼う、周りに竹の柵を設けた。柵は手作りで工夫が必要だ。牛は古い納屋を修理して牛小屋とした。これで我が家としては暮らしの準備ができた。農業はどうするか。韮山は稲作農業地だから、ほとんどが米農家だ。一方、我が家のような素人のにわか百姓にとって、米つくりは難しくて無理だ。そこで親父と相談して、サツマイモを作る事にした。

誰も関心を持たないような山の開墾用地を手に入れた。熱海峠に近い山の平坦地の開墾だ、毎日のように3時間かけて登っていき、開墾した、約3町歩だから9,000坪で約29,700?。私にとって最初の難仕事だった。なにしろ当時の私は8才で、クラスでも一番小さく、皆に馬鹿にされていた。それでも仕事に慣れてきて、牛車を牽いて開墾地に通うようになり、芋の収穫もできた。なにもかも初めての経験で、毎日が辛く苦しく、朝は起きたくなかったけれど、牛車を牽いたり、芋の収穫を見るようになると嬉しかった。そして何でもやるたびに「やれば俺にもできる」という自信がついた。こうなると毎日が面白くなっていく。

[9] >>
comments (0)
trackbacks (0)


<< 震災津波と戦災に思う
疎開編2 疎開生いじめに遭う >>
[0] [top]


[Serene Bach 2.23R]